5月3日

 喫茶店で作業。衝立越しにそれはもはや匂わせじゃなくてお知らせだろと言う男の声が聞こえる。そういえばくろそーが「匂わせ」という言葉について、自分が受け取ったものを相手の能動的な行為に転化するときに嗅覚の比喩が使われていることに着目して文章を書いていた。「自分たちが「嗅ぎつけている」のではなく、当人らが「匂わせ」ている。発生した疑念はあくまでも受動的なものであって、ゆえにこの疑いが的外れかは関係なく、この疑念の発生自体が「被害」なのだと[……]」(公開されている黒嵜想のGoogleドキュメント「この距離でも匂う」より)。探偵が「これはクサイな」と言うとき、彼は犯人が意図せず残した痕跡を嗅ぎつけていたが、嗅覚はもはや痕跡をトレースバックする能力の卓越を比喩するものではなくなった。あらかじめ撒き散らされた痕跡への沈黙は共犯を意味してしまう。疑念は被害であり、潔白であるためには告発しなければならない。一方は匂わせ、他方は言わければならないというコストとリスクのギャップに誰もが巻き込まれ、互いに能動性をなすりつけあう。無臭であることが公共圏への参加条件となり、かつて漠として疎であった喫煙者の空間は公然と密になり、私性はあらかじめ明け渡され抵当に取られている。お知らせに向かう匂わせと陰謀に向かう告発のチキンレースはそのことから目を逸らす方便ですらあるかのようだ。匂わせから匂いを剥ぎ取ることはできるだろうか。そのとき人は犬にとっての犬がおそらくそうであるように匂いに「なる」だろう。蜜柑を焼いたようなハイライトメンソールの重たい煙の、削った鉛筆みたいな汗の、夜の川辺みたいな部屋干しのTシャツの匂いに。

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カテゴリー: 日記