6月10日

 動物に必死に人間の似姿を探そうとするのは、人間が動物になってしまうのが怖いからだ。ドゥルーズは動物は死ぬことを知っていると言ったが、それは動物の死は死を最小にする死だからだ。人間は墓を建て弔い死を最大にする。そのとき死は非物体的なものになり、死体の物体性は滅却される。動物は死ぬときたんに死体になる。人間性にせよ人権にせよ、それを動物に拡張するときに人間の側で何が確保されようとしているのかとつねに問う必要がある。しかし例えばペット葬なんて馬鹿らしいと言いたいのではない。たしかに半分はそう思う。でももう半分は、人とともにあることを彼らなりに解釈し生き、人に喜びや安らぎを与えてくれたということに対して、弔うこと以外でどう応答すればいいのかと思う。これは社会の問いであり文明の問いだ。その時点でやはり半分はもう興味を失ってしまう。動物に出くわすたびにわれわれは半分に割れる。その割れるということ自体から何かポジティブなものを取り出すことはできるだろうか。

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カテゴリー: 日記