9月19日

ベッドに寝転がるとベランダの窓から80インチくらいの大きさで空が見える。ずっと見ていれば夜になるんだろうかと思いながら寝て、起きるともう夜で明るい月がフレームインしていた。ベランダに出て煙草を吸って、アパートの横から伸びて月のほうへ向かう道を自転車が過ぎて行った。道沿いにある「まいばすけっと」の看板が暴力的な赤さで光っていて、日中との印象の違いは狙われたものなのか考えてみた。

国民年金を払えという紙が来ていて、彼女が呆れているのを察知したので未納のゆるキャラを演じてはぐらかした。顔を洗って「ある程度金がないとどれくらい金があるかわからない」と日記メモに書いた。たくさんあってもどれくらいあるかわからないものなのかもしれない。どれくらいあるかわからないから貯めて、貯めてもそのうちいかほどが借金なのかわからないのだと思う。会社に勤めれば年金や保険料はあらかじめ差し引かれるわけだけど、それはいわゆる「おこづかい制」みたいなもので、というか、そういう仕組みがおこづかい制の起源なのかもしれない。見方を変えれば国から毎月金を貸してくれとせがまれているわけで、友達にしても困った部類だなと思う。理由は聞かずに黙って貸すのが大人なんだろう。聞いてもどうせゆるキャラにはぐらかされるのだ。

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9月18日

なんとなく広告で出てきたZARA Homeのサイトで家具を眺めていて、アロマオイルの瓶に細い木の棒が刺さっている写真があって、昔それが何だかわからず、ビジネスホテルかどこかにあって液状のロウソクみたいなことなのかと思って持っているライターで火をつけようとしたことがある。先っぽが黒く煤けるだけだったのでゴミ箱に捨てた。謎の棒といえば、これも昔、梅田の喫茶店でカフェラテを注文するとカップに何か茶色い棒が刺さっていて、クッキーみたいなものかと思って齧ってみたら木みたいに硬くてびっくりしたことがある。シナモンスティックだったらしい。アロマの棒と、シナモンスティック。これが僕の2大謎の棒なのだが、あなたの謎の棒エピソードもあったら聞かせてほしい。

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9月17日

締め切りの日。朝までかかって書いた。と言っても——前にもこういうことを書いた気がする——ずっとパソコンにかじりついてうんうん言っているわけではなく、煙草を吸ったり散歩をしたりどっかを拭いたりして必死に向き合わないようにしていたら朝までかかったというだけのことだ。圧縮すれば4時間くらいになるのかもしれないけど、それができるのか、できたとしてそれでよいのかということはよくわからない。こないだここで書き出しを書いたミームとスパムについての文章で、しばらくしたらウェブで公開されるので読んでほしい。書いてて楽しかったし、いままで書いたもののなかでいちばん愉快で情熱的な文章になったと思う。台風が来ているみたいで、夜に雨が降り始めて窓を閉めようとすると外から火薬みたいな匂いがした。風呂に入ろうと脱衣所で服を脱ぐとみぞおちのところにポツッと邪悪な感じのニキビができていた。朝までかかって書いて、書けたのが嬉しくて布団のなかでスマホから読み返したりしていた。起きるともう雨は止んでいて、むしむしするので窓を開けた。

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9月16日

そういえば最近積読というものをしなくなった。あんまり暇なので買った本はぜんぶ読んでしまう。同じような変化を感じている人もいるんだろうか。いまもこないだ買った3冊を読み切って、せっかくだしこの切れ目に乗じて締め切りが近い原稿をやってしまおうと思ったのだが、ひとつだけ最近文芸誌に載った記事をチェックしてから書きたいと思ったので本屋に行ったのだがなく、野毛山の図書館にも行ったのだがなかった。たくさん歩いたけど涼しくて気持ちよかった。コメダに入って原稿を進めた。

別の話。加害−被害という枠組みでしか物事が捉えられなくなると、関係というものが消滅するだろう。二者のあいだで起こったことがいずれかの項の能動性に還元されてしまうわけだから。というか、関係というものにはみんなもううんざりしているのかもしれない。けど具体性は関係にあるわけで、そうなると結局うんざりされているのは具体性だということになる。

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9月15日

Dos Monosの新しいアルバム、『Larderello』を部屋を歩き回りながら聴いていた。ヒップホップはぜんぜん詳しくない、というか、あらゆるジャンルの音楽にぜんぜん詳しくないのだけど、トラックの感じがビートドリブンというよりギターやシンセサイザーの質感が迫って来るようでカッコいい。とくにギターのありかたが素晴らしくて、シューゲイザーとかフェネス(のアンビエントじゃないやつ)を思い出しもするのだけど、スペイシーな感じはなくまさに「暗渠」を流れる川のような迫力がある。あと、こういう音響だとなおさら没のラップが活きると思った。多くのラッパーは頭ごと握り込んだマイクに声を込めるような発声をすると思うのだけど、没の発声は胸を開いてトンネルに響かせるような発声で——とくに「あ行」の破裂感。ババババー!ワワワワー!と聞こえるのはb-b-b-bird, w-w-w-wordと言っているらしい——トラックの上物とあいまってロック的と言えるような激しさがある。

最後の(skit)から21世紀ノスタルジアの流れが感動的で、繰り返し聴きながら中学生の自分に食わせてやりたいなと思った。物理ボタンでディスプレイもないiPod shuffleにオーディオテクニカの2、3千円のイヤホンを挿して自転車で音楽を聴いていたときの、たぶんいちばん音楽が好きだったときの自分に。ヒップホップで好きだったのはテリヤキボーイズのHeartbreakerとA Tribe Called QuestのElectric RelaxationとSoul’d Outのイルカの3曲だけだけど。

思い出していたらそういえばあの頃2回ひき逃げされた。いちどめは下校中で交差点を左折してきた白い軽四に自転車の前輪を持っていかれるかたちでぶつけられた。ぶつかる瞬間に運転席のおばちゃんの驚いた顔が見えた。ちょっと投げ出されるくらいだったのですぐ起き上がるともう車が動き出していて、自転車を起こしてすぐに追いかけたが振り切られてしまった。もうひとつは夜道にまた自転車で走っていたら真後ろから結構なスピードでぶつけられて、気づいたときには地面に寝ていて後輪がひしゃげた自転車が車と自分のあいだに転がっていた。黒いワゴンRから3人くらいの男が降りてきて、大丈夫?と聞かれて大丈夫ですと言って起き上がると大丈夫なんならええよなと言って車に戻って行った。そのうちひとりが同級生の兄だったので翌日学校で昨日お前の兄ちゃんにひかれたぞという話をしたら兄ちゃんは車を持ってないと言って話が終わった。

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9月14日

彼女に学部のときどんな哲学の講義を受けていたかと聞かれて、哲学の授業は講読しか出たことがないと思うと答えた。上野修のデカルトとラカンの主体性についての講義はいちど出たきりでやめてしまったし(たぶん午前の授業だったのだ)、他にどういうものがあったか思い出せない。シラバスには「『純粋実践理性批判』を読むVII」とか「『エチカ』を読むIV』とかあって、そういうのは哲学科以外お断りという感じだったし、ドイツ語もラテン語もできないので出られないなと思っていた。所属先の美学か、美術史とか演劇学とかの授業で専門の単位を取ったと思う。

地獄のような臨床哲学科の哲学対話の授業にも出た(友達がいなくて寂しかったんだと思う)。靴を脱いで入る薄いマットが敷かれた保育園みたいな教室に車座になって「対話」をするのだが、いろんなルールがある。スーモみたいなボサボサのボールを持っている人だけが話すことができて、それ以外の人は手を挙げてそのボールを受け取るまで口を開くことができない。誰かがひとしきりしゃべると、それについて賛成か反対かで手を挙げて、反対の人のうち誰かがボールを受け取って意見を述べ、もとの人が応答し、それについて賛成か反対かで挙手をし……というのをえんえん繰り返す。反対から反対へと遡るばかりなので話が一向に前に進まず、むしろそれに忍従することが何かのトレーニングだと考えられているのかもしれないけど、結局どうなるかというと、どこかで疲れて、あるいはひとりで意固地に反対することが恥ずかしくなって、無難なところで話が終わるのだ。あまりに馬鹿らしい。ボールが回ってきたときに賛成でも反対でもないときはあるし、センシティブな話題であれば嘘をつくことも避けられないという話をすると、この場では全員が哲学者で、信頼し合わないと話ができないのでそういうことは許されないと言われたので、じゃあ僕は哲学者じゃなくていいと言って出て行った。カッコつけてるみたいな話で恥ずかしいのだけど、本当に腹が立ったのだ。

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9月13日

アパートの管理会社がぜんぶの部屋にJ:COMのケーブルテレビとネットを導入することに決めたらしく、機械の設置に来た。テレビがあれば無料でBSやCSが見られるようになったらしいのだけど、ないのでネットのルーターだけ。テレビ線から引くので下りはある程度速いけど上りが遅いらしく、いま使っている光回線をそのまま使うことになるだろう。べつに僕が頼んだわけじゃないことをわかっているからか、J:COMの人は終始申し訳なさそうにしていた。チャイムが鳴って、いちおうマスクを着けて応対する。そういえば来客用のスリッパがないなと思ったら、飛行機の座席にあるみたいなスリッパを持ってきている。テレビの線はここですというと、布のマットのうえに機材を置いて作業を始めた。冷房を付けてはいたが暑そうでときおり汗を拭っていて、よっぽど温度を下げようかと思ったがそれで彼がもっと申し訳なさそうになったらどうしようと思いながら座って何かする振りをしていると作業が終わった。2ヶ月間無料で320Mbpsのネットが使え、3ヶ月目からは月々2000円で、160Mbpsであればずっと無料で使える。でもゲームとかされるんでしたら光のほうがいいですよね。テレビ線なのでどうしても上りが遅くなるのでやっぱり光にしますという方もいらっしゃいますと奇妙なくらい正直に話す。僕は作業机に座っていて、彼は立ってタブレットで何か書類に書き込んでいて、ダイニングテーブルに座ってもらおうと思ったがそっとしておくことにして座ったまま彼の差し出すタブレットにタッチペンで署名をして、玄関まで送った。頭を下げたままそっとドアを閉じていて、なんだかすごい人だったなと思った。

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9月12日

以下はある原稿の下書きです。とりあえず一息でかけるところまで書いてみよう。

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社会的分断というのは、言葉の面から見れば、あらゆる言葉がその集団の内部ではミームとなり、外部からの、あるいは外部の集団への言葉がスパムとなることを意味するだろう。これは標準語と方言のようないわゆる中心−周縁図式とは異なる社会言語学的な軸として考えることができるかもしれない。

というのも、ミームは特定の集団への帰属を指し示すものではあるが、「標準語」ないし「共通語」に見込まれるような正書法的な(orthographical)規範や由緒正しい歴史をもつものではないからだ。それはすでに何らかの外部性に晒されている、というか、外部性をユーモアで馴化するものがミームだと思う。

たとえば「草生える」というネットスラングの由来を考えてみよう。まず(笑)という記号が日本語対応していないオンラインゲームのチャットで(warai)と表記され、それがネット掲示板や動画サイトのコメント欄へと場所を移しつつ短縮されwになり、さらにwwwでその強調が表現されるようになった。この見た目が草が生えているようなので、wwwと書き込むことが「草を生やす」と呼ばれるようになり——重要なステップだ——最終的に笑うことそれ自体を「草生える」あるいはたんに「草」と言うようになった。

最初に目につくのは(warai)という表記の如何ともし難いぎこちなさだ。(笑)というそれ自体古いものではない、しかし少なくとも日本的な語(語と言えるのか? ということは措く)と欧米のプラットフォーム、QWERTY配列のキーボード、ローマ字入力という、多重の異邦性との衝突がそこにはあまりに明け透けに現れている。wはたんに倹約的であるというだけでなく多少ともその衝突をマイルドにするものとして一般化したのではないだろうか。そしてこれが外国語の文字としてではなく絵として読み替えられ、草として日本語のエコシステムのなかに位置づけられる(しかしそこには親しい人の知らない表情を垣間見るような微かな違和が残存しており、そのことがミームをミームたらしめる。(ryが(略)のミスタイプから生まれたように)。

そしてこの草が文字通り繁茂したのがゲイポルノを笑いのネタにしたいわゆる「淫夢ネタ」の動画コメントにおいてであったことは、見過ごすべきでない点だと思う。異性愛規範に対する外部性を笑いによって馴化するためにこうした、それ自体外部性を隠蔽することで生まれたミームが多用されその外へと拡散されたことは現代の情報−技術環境と言語、そしてマクロまたはミクロな政治の絡み合いを考えるうえで非常に示唆的だ。われわれは異質なものに対して歴史的な正当性によってではなく、すでに成功した——ことすら忘却された、いや、忘却することで成功した——馴化によって他者化しながら包摂するのだ。

これに対してスパムは、

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というところで続きは公開を待ってください。ネット記事で、公開は今月末くらいだと思う。

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9月11日

日記を始めた頃は昔のこと、子供の頃のことや大阪に住んでいたときのことをわりと頻繁に書いていたのだけど、最近そういうことを書きたくなくなってきた。そもそも昔のことを書きたくなっていたことのほうが僕にとっては例外的なことだったのかもしれない。人に昔のことを聞かれるのはもともとあんまり好きじゃないし。最初は原稿のネタになるようなことは書いてもしょうがないし日記でしか書けないこと、その日あった些細なことからいかに別のいつかや何かに飛躍できるかということをやろうとしていた気がするのだけど、いまや日付がたんなるしるしみたいになってきて、のっけから読んでいる本の話をしたりすることも増えてきた。むしろ日記的なものが一種の逃避先みたいになってきて他に書くことがないからしかたなく作った料理の話をしたりしている。しかし考えていることの話をしたいというのもそれはそれで今度は日記的生活からの逃避として書いている節もある。いよいよ日々が生活にすぼまってきて、ご飯を作ったりシャワーを浴びたり掃除したりストレッチしたりということへの憎悪を鎮めるために本を読んだり、それについて書いたりしているのかもしれない。日々と生活のあいだに。

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9月10日

翻訳書を読んでいると僕も翻訳進めなきゃなあと思うし、外国語原書を読んでいてもこれ読むんだったらと思う。食事のあと台所で煙草を吸いながら油の飛んだコンロ周りを綺麗にするのがなかば楽しみみたいになってきておじさんみたいだ。そういえば5日後が締め切りの文章がある。ここ2週間くらいのあいだにばらばらと書いてきたことで何かできそうだとは思うけど、どうせまた大変なんだろう。

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