9月9日

昨日の続き、というか、これは大発見かもしれない!と思ったことを書く。技術言語学的な次元についてぼんやり考えていて(いろんなことが起こっている)、笑うことを「草が生える」とか「草」とかいうスラングの普及は、携帯電話のマルチタップ入力ないしフリック入力の浸透がひとつの原因になっているのではないかと思い当たった。「w」も当初日本語対応していないオンラインPCゲームのチャットで「warai」と書いていたのが省略されたものらしいが、これはPCキーボードでかつローマ字入力という環境が一般化していたことの表れだと思う。もし当時のインターフェイスがフリック入力みたいなものだったり、キーボードの形は同じでもかな入力が一般的であったりしたら、「w」は生まれずしたがって草も生えなかっただろう。明確な歴史的なステップに分けることもこの説を実証することも難しいだろうけど、日本語に草が生えたのはパソコンのローマ字入力環境と携帯のかな入力環境のあいだの空隙によるのではないか。

と思って ciniiでかな入力とかについて論文がないかなと調べていたら情報処理学会の去年のジャーナルに「かな入力再考」という論文、というか短い提言書のようなものが載っている。これによれば例えば「東京」の正式なローマ字表記である「Tokyo」とタイプしても「ときょ」になってしまうようにローマ字(でのかなの)入力はローマ字(単体の)表記と衝突するし、英語学習の障害にもなると述べられている。それでかな入力を再考しようということなのだけど、それだったらキーボード入力(それぞれのキーにそれぞれの字母が対応し、シフトキーなどで同一のキーに別の字母が割り振られる)から再考したほうがいいんじゃないか、実際フリック入力はここ10年(くらい?)でめちゃめちゃ普及したんだしと思った。音声入力もあるし、何か思いもよらない入力方式も開発されるかもしれない。まさに『チャイニーズ・タイプライター』がつまびらかにするように、われわれ非アルファベット圏の人間は150年このかたタイプライター的なものに縛られてきたのだし。

とはいえ、これからの日本語入力がどうなるか、どうなるべきかということにはあまり興味がない。興味があるのは入力環境がどういう力学で形成され、分布し、それが言葉のありかたにどのように影響するかということだ。ローマ字入力とかな入力のあいだに草が生えるように。

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9月8日

梅棹忠夫の『日本語と事務革命』、武田徹の『メディアとしてのワープロ』を読んだ流れで、刊行されてからずっと気になっていたトーマス・S・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター』(比護遥訳)をやっと読み始めた。すごく面白い。

たとえばフーコーは『知の考古学』で「言表(énoncé)」とは何かという話、というか、言表とはあれでもなくこれでもなく…… という話をするなかで、フランス語キーボードの左上にあるAZERTという並び(英語だとQWERT)は言表ではないが、それがタイプライターのマニュアルに印字されたものは言表であると言っている。言表が言表であることを決定するのは、言表の意味にも文法にも意図にも物理的支持体にも還元されない「言表的レベル」のなかでの諸々の言表の機能=関数(fonction)によってであり、「考古学」はその機能=関数を炙り出すことを目的としている。

たしかにマニュアルのなかでの「AZERT」という言表には文法も何もないが、それを取り巻く言表によって特定の機能を与えられる。しかしAZERTというキーボード上の並びも同様に、人間の手指の構造やフランス語における各アルファベットの出現頻度といった、非言表的な、フィジカルで統計的な力場のなかで実現されたものだ。言表をその他のもの(論理的ないし文法的構造や主体の心理)の影としてでなくそれそのものとしてポジティブに見ることができるのなら、言わば「言表に強く関わるがそれ自体は言表ではない技術的レベル」にあるもののポジティブな探究も可能なのではないか。

『チャイニーズ・タイプライター』で「技術言語学(technolinguistic)」と呼ばれるのはそのようなレベルの探究だと思う。近代中国語の歴史は漢字の簡体字化、中国語の口語化、識字率の向上といった文化的なレベルでばかり語られてきたが、これらはいずれも中国語の活字化やタイプライターやワープロの開発に寄与するものではない(日本語もそうだろう)。マラニーが明らかにするのはむしろこうした技術的なものが言語にどのように食い込み、そこでどのような葛藤や折衝が起こっており、そこに近代なるものと中国のどのような関係が浮かび上がるかということだ。

興味深いのは彼が同時に、いわゆる「モノの歴史」(顕微鏡/コーヒー/iPhoneはいかに世界を変えたか?)に見られるような、特定の文化的技術的な産物を社会全体のパラダイムシフトに結びつけるタイプの技術決定論を退けていることだ。しかしそうなると技術的なものと言語的なものは結局どのような関係にあると言えるのか。もういちどtechnoとlinguisticのあいだにスラッシュを入れるとするなら? ということを考えながら読んでいる。

人名索引にフーコーもラトゥールもドゥルーズも出てこないが、これはきわめて哲学的な、技術と文化、理系と文系、物体的なものと非物体的なものの関係をどう考えるかという問題だと思う。マラニーから哲学的立場を炙り出すとするならフーコーとドゥルーズの違い、というか、ドゥルーズがいかにフーコーを読み替えているかということがポイントになると思うのだけど、書き始めたら倍の長さになりそうなのでこれについてはまた気が向いたら書こう。まだ『チャイニーズ・タイプライター』読み終わってないし。

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9月7日

横国大のワクチンが近隣住民に解放されていて、横浜市のほうは予約サイトが更新合戦になっていて辟易していたのでそっちでやってみたらすんなり予約できた。半年ぶりくらいにキャンパスに行って、図書館の1階のふだんカフェがある場所が接種会場になっている。ぞろぞろと並んで受付、予診、接種、おそらくアナフィラキシーとか急激な副作用があったときののための15分ほどの待機を済ませる。いつも使っていた喫煙所が撤去されていたのでそこに新たに置かれたベンチで煙草を吸って帰った。

左肩が痛くなってきて、暑いような寒いようななんとなく怠い感じもして、腹が立つというか、不貞腐れるような気持ちになった。この1年半風邪も引かずに過ごしたのにそのツケを無理やり払わされているような感じだ。健康を奪われたのではなく、風邪を引いてしまう、コロナが移ってしまう、その「しまう」を取り上げられた。それは私の一部なのだ。3ヶ月くらい続けてきたストレッチもやる気が起きずお風呂にも入らずKindleでずっとマンガを読んで寝た。

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9月6日

このサイトはwordpressで作っていて、定期的に管理画面への再ログインを求められる。そろそろ信用してくれてもいいんじゃないか。Macのキーチェーンに入っているIDとパスワードは自動入力されるが、人間であることの証明にひらがな4文字を手で入力する。新たなログインがあったというメールの通知がポップアップする。それは僕だ。僕じゃなかったら困るのだけど。

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9月5日

これがどれくらいの人に当てはまるのか分からないので、漠然と「物書き」ということにしておくが、物書きというものは、何をするにもたくさんの言葉がつきまとってくる苦しみのなかにいるものだと思う。批評家、研究者、エッセイスト、小説家等々とそれぞれ最終的にアウトプットされる文章のジャンルによってその内容の傾向も多少異なるだろうが、少なくとも僕はつねに前後左右に2000字ずつくらい引きずりながら生きていて、そのあいだでスクランブル交差点みたいになった頭のなかで何だか分からないまま何かを推敲しているという感じがある。一挙手一投足とは言わないまでも、ある程度の幅のもとでの最近の考え、やりたいこと、あるいはやってきたことについてさあ書けと言われたらすぐ2000字くらい書けるし、30分喋れと言われれば喋れるだろう。やはりこれがどれくらいの人に当てはまるのか分からないけど、結構多いんじゃないかという気もするし、同時にこれは異常なことだと思う。そうじゃない人と話すときに変に思われないようにするのも難しい。相槌が単調になるし、簡単な受け答えに時間がかかる。

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9月4日

3日続けて雨雨雨で残暑も何もなく、長袖長ズボン、靴下を履いて家にいる。昼ご飯に昨日作った鶏鍋(レンジで鶏ハムを作ったときに出た出汁に水と魚介の出汁パックを入れて煮立たせ野菜と鶏肉を入れたやつ)とその汁で作った雑炊を食べて、晩ご飯に余っていたローストビーフを削いで、オレンジをバラしてとレタスをちぎって煮詰めたバルサミコ酢をかけてサラダにしたやつとまいばすけっとで買った塩鯖を焼いて食べた。米は面倒なのでパックのやつ。風邪の前触れみたいな寒気がしたのでお風呂にゆっくり浸かって早めに寝た。

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9月3日

さいきんいろいろ読んで日本語について考えていて、「日本語の話」みたいな名前でインタビューと取材記と考察が一緒になったようなシリーズとか作れないかなと思っている。「ひるにおきるさる」で動かせればいいのだが、通話でインタビューはしたくないし、いずれにせよ1年くらいは置いておくことになるだろう。こういうことを考えているのは、ひとつには博論のなかでドゥルーズの言語論を取り上げて、でも僕らの業界でたいていそうなっているようにそこで扱われる言語は「言語一般」——それもあくまでフランス語を通して考えられた——で、それでいいのかと思ったからだ。とはいえ哲学をやっていると日本語の特殊性の扱いは非常に危険なので迂回したくなる。たとえば「哲学」はphilosophyでそれは古代ギリシア語の愛philiaと知sophiaの組み合わせで、哲学とは知を愛することなのだ、といった語源にもとづいた議論は哲学の頻出テクニックで、ハイデガーはその権化のようなものだ。良かれ悪しかれいわゆる大陸系の哲学研究者はこういうレトリックを内面化している。しかしこれを日本語について、「分かる」とは「分ける」ことであり、「理」とは「ことを分ける」ことなのだとか言い出すと、なんだかとたんにヤバい感じがしてくる。こういう「起源」への拒否感は重要なものだと思うし、それをヨーロッパに向けることも大切だと思う(ハイデガーに対するデリダの立場)。つまりヨーロッパ的な起源に対して日本的起源を立てるのではなく、いずれからも剥離してこそ哲学は(抽象的な意味で)脱植民地化できるだろうということだ。それで、なんだか思わぬ方向に話が進んでしまったが、日本語の話をするときに大切なのはその非−特殊性をどれだけ具体的に取り出せるか——理念化すると普遍言語主義になる——ということだと思う。いろんなアプローチがありうるがいま考えているのは機械と日本語という観点からそれをやることだ。

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9月2日

何も思いつかないので自分の本の宣伝でもしようかな。そういえば先日、日本の大学で博士号を取ったらしい中国人の方からメールがあって、『眼がスクリーンになるとき』を翻訳したいということだった。ありがたい話だが版元どうしで話さないとどうにもならないし、その人が中国の出版社をすでに見つけているのかどうかもわからないのでフィルムアート社の方に対応をお任せした。まあ難しいんじゃないかと思うがそういう人がいると知れただけでもとても嬉しい。

『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』は2018年の夏に出た本で、修士論文と5時間かけて『シネマ』を解説したレクチャー(動画)をもとにして書き下ろした本だ。その後の博士論文の苦労と比べても本当によく書いたと思う。

ひとつの鍵になるのは「イメージ」という概念だ。これをベルクソンの『物質と記憶』から引き継ぎつつ映画にぶつけることによって、そこにドゥルーズがどのような新しさを吹き込んでいるかということがひとつの軸になっている。『眼がスク』はドゥルーズ本というよりベルクソン+『シネマ』本で、ベルクソンについての議論が3分の1くらいを占めているんじゃないかと思う。ちなみに映画作品には一切触れないという方針を取っていて、いろいろ言われもしたが反論もした(書評へのリプライ記事)。

「イメージ」というと頭の中にある非物質的な像とか、絵や画像のような人工的な像を通常意味するが、ベルクソンはイメージを物質と同一視することを提案する。物質はイメージであり、イメージは物質である。実在論者は物質と頭のなかの非物質的な表象(クオリアと言ってもいい)をきっぱりと分けるが、それには脳というマジカルな回転扉が必要だ。入るときには物質だったものが出るときには非物質になっている。これに対してベルクソンは客観的に現前(presentation)するイメージと主観的に表象(representation)されるイメージの関係を、質的な変化ではなく量的な引き算によって説明する。知覚が成立するのは神秘的な変容によってではなく、現前する(不可視光線や不可聴域の音波も含む)イメージからわれわれの身体が生存に役立つ刺激を選り分けているからであり、脳−身体はたんなる(それ自体物質=イメージで作られた)フィルターだ。

重要なのはベルクソンはイメージ=物質の一元論を唱えているわけではないということで、イメージはまさに「物質と記憶」の二元論を形作るための下地になるのだけど、話が込み入ってくるので興味のある人は『眼がスク』を読んでみてほしい。第4章でそういう話をしている。

それで、ドゥルーズは映画はまさにベルクソン的な意味で「イメージ」だという発想から始めて『シネマ』を書いた。これは映画がリアルな世界を撮影する芸術だからということではない(それなら写真でいいし、アニメは映画ではないことになる)。そうではなく、映画における、要素を規定するフレーミング、一定の持続=運動を規定するショット、それらを組み合わせるモンタージュといった操作が、すでに世界を満たすイメージの運動を凝縮しつつ反復するから映画はイメージなのだ。世界が自然で映画が人工なのではなく、世界が「メタシネマ」で映画はそれを引き算することによって、世界が初めから映画であることを表現する。イメージが引き算されることで知覚が生まれ、ひとつの断面として世界全体と響き合っているように。

僕がいちばん面白いと思うのは、こうした議論が映画とそれについて哲学的に思考するドゥルーズとの関係にどのように跳ね返ってくるかということだ。批評の哲学的な条件と言ってもいい。超越的なポジションを取ると議論の内容と矛盾することになる。しかし私も世界の運動の一部だと言うことにそれを言うこと以上の意味はない。この問題にアプローチするのがもうひとつの鍵概念である「リテラリティ(文字通り性)」とそれが可能にする創造性の話だ。本書を読んで確かめてほしい(出版社リンク)。

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9月1日

メモに「ウィトゲンシュタイン、わかる」とあったのでそれについて。もう9月で、それを待っていたかのように雨が降って急に涼しくなった。2ヶ月くらいかけてちょぼちょぼ読んでいた『哲学探究』を読み終わる。今年出た鬼界彰夫の訳。今まで全集版と丘沢訳でトライしたのだけど、なかなかとっかかりが掴めず、そんななか鬼界訳には独自の章立てと梗概、解説、充実した訳註が付され、柔らかくも文構造がはっきりした訳文でとても読みやすかった。『哲学探究』はそれぞれ番号を振られた693個の「考察」がえんえんと続くだけで、章や節といったメタな階層が全くなく、それぞれの考察をこれは理論的主張、これはその個別事例、これは別のトピックの架橋といった感じで、大局的に位置づけながら読むのが難しかった。今回付された目次によってその難しさは大幅に柔らげられてはいるものの、テクストそのものの性質がのんべんだらりとしているので、掴みどころのなさはどうしても残る。ガイドがついているからこそそこに収まらないものも感じられて、それが面白かった。

それで、何がわかるのかという話なのだけど、内容というよりこういう書き方が求められる理由がわかる気がしたということだ。これはひとことで言えば「本」になることを想定していない書き方だと思う。少なくとも本的なグランドデザインを想定しておいてその中身を埋めていく書き方ではない。言語とはどういうものかという問題から哲学とはどういう言語である(べき)かという問題へと徐々に重心が——ミクロに行きつ戻りつ——スライドしていく。しかしこうした整理も反省的なものであって、読んでいるときのどこにいてどこに向かっているのかわからない生々しさのほうがこの文章のリアルだと思う。それは思考そのもののリアリティでもあって、思考、意味、理解に想定されてきた瞬間性が溶かされて——章構造の忌避はその形式面だ——フィジカルな時間に置きなおされていく。2ヶ月くらいかけてちょぼちょぼ読むといい。

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8月31日

「大原則がある。物事は意味をもち始めるにあたって私のことなど必要としていない。あるいは少なくとも言えるのは、記述的な面から見ると同じことになるが、物事が私のことを必要としていたとしても、私はそれを知らないということだ。意味というのは物事の中に客観的に書き込まれる。例えば、何か疲れさせるものがある。それだけだ。この大きな丸い太陽があり、この上り坂があり、腰のくびれあたりに疲れがある。私はただわけもなくそこにいる。疲れているのは私ではない。私は何も作り出してはいない。私は何かをしようともしていない。私はこの世界に何ももたらしてはいない。私は何でもない。無でもない。まずもって無ではない。一つの表現でしかない。私が物事に私のささやかな意味を引っ掛けるのではない。対象は意味などもたない。対象がその意味なのだ。すなわちこの場合、疲れさせるもののことだ。」

これはドゥルーズが20歳のときに書いた「女性の記述」という文章からの引用で、ちくま学芸文庫の『基礎づけるとは何か』に収録されている。

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