10月10日

関内のロイヤルホストでステーキをたらふく食べて、有隣堂で本を買って帰って、それをひとしきり読んで昼寝をした。本をナイフとフォークで食べる夢を見て、なんて底の浅い人間なんだと思って可笑しかった。最初は1ページの数行ぶんを切って食べていて、これだと埒が明かないと思って下までざくざくと切ってフォークに刺して食べた。

買ったのは村上春樹の初期の短編集3つで、ここ3日ほどで鼠三部作と80年の村上龍との対談本も読んだ(刊行順に読んでいる)。『ドライブ・マイ・カー』を見て、2年にいちどくらいやってくる村上春樹回帰が起こっている。たぶんひとは、思春期を通して精神的実家のようなものを自分でこしらえるんだと思う。僕にとって村上春樹(と若干の音楽)がそれにあたる。18で実際の実家を出て、今度は精神的実家を拠点に新しい本を読み、社会との距離を計り、孤独をやり過ごす。実際の実家にあんまり帰らなくなるように、精神的実家と自分のフィールドとの振幅はだんだん大きくなる。その先でひとは新たな家庭をもったり、何はともあれ職場になじんできたりする。いったいこれがいつまで?という問いがトリガーになって精神的な帰省をし、そこで自分がどれほど努力して孤独を勝ち取ったかを再確認し、場合によってはすべて御破算にして旅を住処とするが、大方諦めと怒りを半分ずつ手にして粛々ともとのポジションに戻ることになる。

30歳というのは、村上が小説を書き始めた歳だが、実際の実家と精神的実家、そして精神的実家と自分の社会的フィールドの関係がやっと多少とも客観的に見えるようになる年齢なのかもしれない。鼠はポイント・オブ・ノー・リターンをまたぎ、「僕」はその手前で右往左往し続けることの倫理を社会にこずき回されながら考える。固着なしに内在すること。

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カテゴリー: 日記