日記の続き#5

濃厚接触という言葉の退場と入れ替わるようにして、単純接触効果という言葉をよく聞くようになった気がする。たんに接する頻度が高いほど相手に好意を抱きやすくなるという説。おそらくコロナ前であればひとつの恋愛工学的なテクニックとして、とにかく頻繁にやりとりすべしみたいな感じで使われていたのだと思うけど、いまやむしろ自分が抱いている好意を頻度にすり替えるために使われているような気がする。VTuberやスマホゲームのキャラ化された貧しい人格のアディクション的な消費に顕著に見られるようなものへの、あるかないかのアイロニカルな距離が単純接触効果という言葉には込められているように感じる。この好意は接触が濃厚だからではなく、単純で頻繁だから生まれたものにすぎないのだと。気持ちはわかる。(2021年12月1日


接触が単純で頻繁だから生まれる好意。好意を頻度にすり替える余地があるということは、好かれる側を非人格的なものとして扱う余地があるということだ。日記はそういう余地を積極的に差し出すものでもある。私のことが好きとか嫌いとか、そういう人格的な好悪をあなたが背負う必要はないんです、これはただの頻度の問題なんです、と。それは気楽であったし、日記掲示板の活況にもそうした頻度の明滅としてのコミュニティの気楽さがあった。私の屈託が文字の群れのなかに流れ出して行くような。