日記の続き#6

どうしてこんな話になったんだっけ。高速バスの話をして、高速バスとマックはその空間の記憶が惑星直列みたいに分身化して押し寄せることが起きやすいという話をして、マックのポテトを1本ずつ口に運んでいるときにしか訪れない放心のようなものがあるという話をして、『日記〈私家版〉』はそれに近い感触があるという話をして、それで、しかしそうした切断感を担保している1日という区切りのリアルタイムっぽさは虚構で、その虚構の維持に信用は宿るのだという話をして、それで単純接触効果の話になったのだった。これじゃぜんぜん圧縮したことになっていないが、ともかく。


4月10日
下北沢の「日記屋 月日」が開催する日記祭に呼ばれて、トークイベントに出演した。久しぶりに人前で喋って楽しかった。僕に興味があるというより単純に日記に興味があるのだろうなというお客さんが多くて、かえって話をしっかり聞いてくれている感じがした。掲示板もそうだけどやっぱり日記的なコミュニティには不思議なところがある。後半の質問で日記のセルフケア的な効能について聞かれた。僕は気分の上下が少なくて、あんまり悩んだり落ち込んだりしないのだが、日記を書いていて初めて、そうは言っても調子や自己評価の波はあるのだなと気づいたと答えた。だから直接的なセルフケアというより、セルフモニタリングによる間接的な効用はあるだろうと。でもそれはわれわれがまず学校の宿題として日記を書き始めるように、モニタリング=監視の目を自らに埋め込むことでもあり、しかし、そういうものからふっと抜け出させてくれるものが日々のうちに確かに存在しており、日記を書くことはそういうものに対するセンサーを磨くことでもあるのだと。