日記の続き#18

毎日書くのは大変なので、この「日記の続き」では去年の日記を貼ってそれで書いたことにしてもいいということにしていて、これまで何度か引用だけで済ませている。でもそれも良し悪しだなあと思っていて、今日はその話。日記のいいところは、毎日書くと決めていなければ書かないようなことを書けるところにある。それはある種のワンダーを運んできてくれることもあるが、同時にそれ自体結構ツラいことでもある。書きたくない、というか、書かないとしょうがないから書くわけで、そのしょうがなさを誰かに(誰に?)向かって言い訳したくなってしまうのだ。極端に言えばこれは僕が書いたわけではないんです、書かされているんです、と。これは普段「オーサー」めいた仕事をしている者にとってはなかなかの試練で、1年という長いんだか短いんだかわからない期間とはいえそれを続けられたのは偉かったと思う。それで、この「続き」から導入している引用についてだけど、果たしてこれはそういう試練からの逃避なのだろうか、というのが今考えていることだ。たしかにそれはサボることでもあるんだけど、そこにひゅっと去年の時間が入ってくるわけで、しかも少なくとも僕がそれを選んでいるわけで、サボればサボるほどこの「続き」の時間は重畳していく。文を今日に託すこと、いつか託した今日に託すこと。日々の側がヌーヴォーロマン的であるのだという、これもまた怠惰な言い訳。