日記の続き#21

京都駅英國屋のテラス席にリスポーン。また1週間が経った。僕にしてはめずらしく感情的な負荷のかかるコミュニケーションが多い週だった。叱ったり謝ったり嘆いたり、最後は蓮實重彦まで出てきた。いやはや。来週はゴールデンウィークで休みだし、2週間静かに過ごしたい。今12時半で、授業まで時間があるので昨日の続きでも書いておこう。蓮實は映画理論が映画に追いつくことなどないと言っていて、僕もそれは完全に同意するのだけど、その追いつけなさはべつにそれ自体としては瑕疵ではなく、理論的言説(哲学でも批評でもいいが)を映画と同じ資格のもとで、しかしそれぞれ異質な実践として捉えればよいのだと考えている。追いつけなさに感じ入ってばかりいてもしかたないわけで、映画から引き剥がしたものを言葉にして、それを別のところへ持って行くことに映画とは別の実践的価値を認めればよいのだと。ドゥルーズは『シネマ』の結論で、もはや映画とは何かではなく、哲学とは何かと問わなければならないときがやってくると書いている。映画に埋め込まれた理論を取り出す実践が、スクリーンに背を向けるときの到来を準備する。小さなさよならの積み重ねが人間を作るように客電の灯りとともに醒める意識から始まるものもあるし、映画館の外の夜がいつだって美しいのはスクリーンに背を向けることで初めてそこに映画を見ることができるからだ。ドゥルーズは映画に等価物があるとすればそれは夢ではなく不眠であり、想像的な投影ではなく映画館から出たときに降っている雨だと言った。