日記の続き#14

4月20日
京都。朝9時に家を出て、新幹線に乗って、京都駅の英国屋で昼ご飯を食べて、この日記を書いている。先週もここに来た。テラス席があって煙草が吸える。真夏真冬以外はここに来ることにしよう。新横浜の改札を通ると、上下ピンク色の作業着にピンクのサンバイザーと、ピンクのシュシュまで着けたおばちゃんがとても大きい声で「いらっしゃいませ!」と言って、片足をかすかに引きずりながら、しかししっかりとした足取りでゴミ箱まで歩いて行った。ゴミ箱には同じ格好のおばちゃんがいて、ふたりでゴミ袋を取り替えている。新幹線の改札でいらっしゃいませと言われるちぐはぐな感じと、その声の朗らかさに心を打たれた。待合に座ると在来線の改札を抜ける人々がガラス越しに見えて、しばらくそれを眺めていた。スーツを着た男がNew Eraのショップバッグを持っていて、この人も休日はキャップを被ってスウェットパンツに溶岩みたいなスニーカーを履いてるのかなと想像したりして、なんだかすべてが愛おしいような気がした。箱根あたりのトンネルがちな区間で、くぐもった走行音をヒーーという高音が切り裂くのをずっと聴いていた。新幹線の音は新幹線に似ている。

日記の続き#13

今年度の研究費をもらうための研究計画書を書いた。研究費を管理している大学の部署に提出するわけだが、誰が読むのかも誰か読む人がいるのかもわからないままに書くのはかなり変な感じがする。以下は変な感じがしながら書いたものの一部。

……このうち本年度の研究において中心となるのは、ドゥルーズにとって体系としての哲学はどのようなものであったかという問いである。彼は哲学の体系を、諸々の「概念」からなるネットワークのようなものとして構想した。これは論理やテーゼを哲学の本体とする考えからすると奇妙な主張だ。しかしドゥルーズは、哲学を概念の実践として捉えることで初めて、スピノザ哲学なりニーチェ哲学なりが、ひとつの体系として把握可能になると考えている。つまり、ひとつの哲学が「閉じられる」ためには、論理やテーゼには還元できないものとして概念が必要だということだ……

それで?という問いが振り切れないものとして頭にこびりつく。だから本を買わせてくれということなのだけど。この「だから」がすんなり通ってしまうことのほうが僕にとっては謎なのかもしれない。すごい変なことだ。

日記の続き#12

博士論文を書籍化するための改稿をやっていて、今日その第二章がやっと(やっと)終わった。この章はいずれもベルクソン研究の延長線上で映像論に取り組んでいるドゥルーズとエリー・デューリングの比較を扱っていて、2016年秋の表象文化論学会(青山学院大学だったっけ。くろそーと今村さんとろばとさんがわざわざ聴きに来てくれて、そのとき初めてひふみさんと話した。いぬのせなか座の山本さん、鈴木さんや大岩雄典さんと会ったのもそのときが最初だった気がする。三浦哲哉さんが喫煙所でああいう思い切った発表がいいよねと言ってくださったのを覚えている。それにしても6年前とは!)で発表したものがいちおうの初出になっている。それを紀要論文として書きなおし、博論に組み込むにあたってさらに書きなおし、今回できたものはしたがって4つめのバージョンということになる。そのつど決して小さくない改稿をして、6年かけてやっと本の1章ぶんになったわけで、我がことながら途方もないことだなと思う。自分はそういう途方もなさに付き合えるのだとわかったことは、とても大きな収穫かもしれない。

日記の続き#11

こういう偶然は案外あんまり重なるものではないが、数ヶ月前の季節外れに暖かい日に近所の小学校の前を通りがかると、敷地を区切る高い柵の縞模様の影が歩道に投げかけられていた。そこを歩くと、縞を横切るのに合わせて速いリズムのストロボみたいに陽光が目を撃つ。試しに目をつむって歩いてみると柔らかくて温かいものでまぶたをとんとんと叩いているようでとても気持ちよく、早く止めないと今にも蹴躓くぞ、そしてこれは気持ちよすぎるぞと思って止めた。80年代にはシンクロエナジャイザーという、目に光を当ててトリップするゴーグルがあったらしい。調べたら今でも売っているが、家で暗い部屋に寝転がって熱のない光を浴びるより絶対に季節外れに温かい日を散歩しながら陽光のストロボを当てた方が気持ちいい。(2021年3月13日

日記の続き#10

前回の続き。4つの小石と4つのポケットの理想的な循環は、それを舐めるモロイの行為の継続性や記憶の持続性に頼らないかたちで(いずれも彼に期待するのは難しい)、あくまで石とポケットを軸に形成されなければならない。だからこそ前回の後半に書いたふたつのツッコミは成り立たないわけだ。とはいえ、『モロイ』を読んだのは何年も前——ハタチくらいだったんじゃないか——で、ここで話していることがどれくらい作品に即しているのかぜんぜんわからない。ひとつ確かなことは、こうした試行錯誤を繰り返した挙句、モロイはあれほど執着した小石をあっさりと捨て去ってしまうということだ。有限な要素と、その組み合わせの可能性の走査。ドゥルーズはその果てにあるものを「消尽(épuisé)」と呼んだ。消尽されるのは可能性だけでなくモロイでもあり、小石を投げるより前にすでに彼は流刑者のように大地に投げ出されている。毎日1箱のハイライトメンソールとともにある生活のなかでときおりこのエピソードを思い出す。#7の話に戻れば、何かを数えることのなかでは自立も依存も区別できないということだ。あなたが日々数えているものは自立の手段だろうか、依存の対象だろうか。数えているとそれがふと小石みたいに素っ気ないものに見えてくるかもしれない。投げ出して横たわっても、立ち上がって別のものを数えるだけだ。

日記の続き#9

#7の続き。こういう話をすると、いつもベケットの『モロイ』という小説のある場面を思い出す。この小説でベケットは徘徊と錯乱という行動と思考にまたがる彷徨いのなかで、ほとんど段落の切れ目もなくびっしりとページを埋めるモロイの独白を書いている。そのなかでモロイが4つの小石を拾って、それを順ぐりにまんべんなく舐めるにはどうすればよいのかと思案する場面がある。見た目では区別できない4つの小石がある。そして上着とズボンにふたつずつポケットがある。まず左の胸ポケットに4つ石を入れて、そこからひとつ取り出してそれを舐め終わると右の胸ポケットに入れる。これを4回繰り返し、今度は逆方向にそれを行う。しかしこれだと石を舐める順番をコントロールできない。今度は4つのポケットにひとつずつ石を入れる。右の胸ポケットから取り出し、舐めたものを左胸ポケットに入れ、石がふたつになったそのポケットからひとつ取り出し、舐め終わったらズボンの左ポケットに入れる。しかしこれだと同じひとつの石がただ循環している可能性を排除できない。ポケットに入れるのと交代でもとある石を口に入れればいいじゃないかというツッコミはなしだ(立て続けに舐めるわけではないということにしよう)。あるいは、それぞれのポケットに入れた石を舐め終わったらもとのポケットにそのまま戻し、次は別のポケットのものを舐めればいいじゃないかというツッコミもなし。さっきどこから出したか覚えておく必要があるからだ。このふたつの想定反論とその論駁は何を意味するのか(次回へ続く)。

日記の続き#8

YouTubeで見た岡田斗司夫が喋っている動画——なぜだかたまに見てしまうのだ——で、彼が視聴者からの手紙を読んでいて、そのなかにテレビで林修が引用したというニーチェの「愛せなければ通り過ぎよ」という言葉が出てきた(すごい重層的なコンテクストだ)。質問や回答はどうということはなかったのだが、その引用、それも内容ではなく、名言のストックとして哲学者が扱われることに不思議な感興があった。名言、あるいは箴言とは文である。哲学が文の集積だと思うから「超訳」は可能になる。でも哲学は文の集積ではないかもしれない。少なくともドゥルーズは哲学とは概念のシステムなのだと考えた。そうすると先の引用はルサンチマンとかニヒリズムとか、そういう概念の布置のなかで初めて理解されることになる。超訳は許されず、概念の訳語を可能な限り固定することが望まれる。しかし何が概念であるかを決めるのも翻訳の一部であって、全面的で統一的な逐語訳は文も概念も破壊する。したがってどちらがどちらの根拠というわけでもなく、翻訳には概念と文の困難なデュアリティが最も明白に表れている。というのは保守的すぎるかもしれない。哲学が名言集になって林修から岡田斗司夫に漂流するのもいいものなのかもしれない。でもそれに耐えうる哲学者はあまりに少ない。これまで述べた理由で哲学はたいてい文に変な負荷をかけるからだ。あらためてニーチェは不思議。

日記の続き#7

煙草をだいたい1日1箱のペースで吸っていて、最寄りのコンビニに煙草を買いに出るのがひとつの区切りになっている。でもだいたいなので時間帯はずれ込んでいくし、煙草を買って1日が始まったり終わったりするわけでもなく、煙草の切れ目は煙草の切れ目で、そのどこにも行かなさが好きなのだと思う。それは純粋に、しだいに薄くなる箱とともにある喫煙者たる僕にとっての1日であって、暦とか社会生活とか、寝たり起きたりとか、そういうものとは関係ないのだ。とはいえそれはたんなるクローズドサーキットかと言うとそんなことはなくて、その回路はコンビニとくっついているし、iPhoneのSuicaの残高とくっついているし、まずもってビックのライターのオイルとくっついている。そこには自閉性と脱中心性の奇妙なバランスがあるのだ。少なくとも今のところは。自立とは依存先を増やすことなのだという熊谷晋一郎の有名な言葉があるが、それをもじって言えば依存とは自律先を増やすことでもある。酒に依存するのも、猫に依存するのも、悪い恋人に依存するのも、それなりに自律した回路がそこここで営まれるなら、自立なんて言わずに済むかもしれない。いくつかの自律的依存とその回路の擦過のなかで寝起きする私。

日記の続き#6

どうしてこんな話になったんだっけ。高速バスの話をして、高速バスとマックはその空間の記憶が惑星直列みたいに分身化して押し寄せることが起きやすいという話をして、マックのポテトを1本ずつ口に運んでいるときにしか訪れない放心のようなものがあるという話をして、『日記〈私家版〉』はそれに近い感触があるという話をして、それで、しかしそうした切断感を担保している1日という区切りのリアルタイムっぽさは虚構で、その虚構の維持に信用は宿るのだという話をして、それで単純接触効果の話になったのだった。これじゃぜんぜん圧縮したことになっていないが、ともかく。


4月10日
下北沢の「日記屋 月日」が開催する日記祭に呼ばれて、トークイベントに出演した。久しぶりに人前で喋って楽しかった。僕に興味があるというより単純に日記に興味があるのだろうなというお客さんが多くて、かえって話をしっかり聞いてくれている感じがした。掲示板もそうだけどやっぱり日記的なコミュニティには不思議なところがある。後半の質問で日記のセルフケア的な効能について聞かれた。僕は気分の上下が少なくて、あんまり悩んだり落ち込んだりしないのだが、日記を書いていて初めて、そうは言っても調子や自己評価の波はあるのだなと気づいたと答えた。だから直接的なセルフケアというより、セルフモニタリングによる間接的な効用はあるだろうと。でもそれはわれわれがまず学校の宿題として日記を書き始めるように、モニタリング=監視の目を自らに埋め込むことでもあり、しかし、そういうものからふっと抜け出させてくれるものが日々のうちに確かに存在しており、日記を書くことはそういうものに対するセンサーを磨くことでもあるのだと。

日記の続き#5

濃厚接触という言葉の退場と入れ替わるようにして、単純接触効果という言葉をよく聞くようになった気がする。たんに接する頻度が高いほど相手に好意を抱きやすくなるという説。おそらくコロナ前であればひとつの恋愛工学的なテクニックとして、とにかく頻繁にやりとりすべしみたいな感じで使われていたのだと思うけど、いまやむしろ自分が抱いている好意を頻度にすり替えるために使われているような気がする。VTuberやスマホゲームのキャラ化された貧しい人格のアディクション的な消費に顕著に見られるようなものへの、あるかないかのアイロニカルな距離が単純接触効果という言葉には込められているように感じる。この好意は接触が濃厚だからではなく、単純で頻繁だから生まれたものにすぎないのだと。気持ちはわかる。(2021年12月1日


接触が単純で頻繁だから生まれる好意。好意を頻度にすり替える余地があるということは、好かれる側を非人格的なものとして扱う余地があるということだ。日記はそういう余地を積極的に差し出すものでもある。私のことが好きとか嫌いとか、そういう人格的な好悪をあなたが背負う必要はないんです、これはただの頻度の問題なんです、と。それは気楽であったし、日記掲示板の活況にもそうした頻度の明滅としてのコミュニティの気楽さがあった。私の屈託が文字の群れのなかに流れ出して行くような。