日記の続き#26

日記についての理論的考察§2
ふたつの極限的なケースのいずれにおいても、書き手は日々と日記の循環関係に囚われてしまっている。たしかフリオ・コルタサルの短編に、男が部屋で小説を読んでいてそのなかで殺人鬼が部屋に侵入し、椅子に座っている男を後ろから刺すとそれはその小説を読んでいる当人だったという話があったが、この読書を執筆に入れ替えたような循環が日記には避け難くくっついてくる。ラカンは主体の構造を〈数えるものが数えられるもののなかに含まれること〉と説明した。その限りで日々のなかで日々について書く日記は主体化の実践だ。
もちろんわれわれは日記を書くためだけに日々にイベントを詰め込んだり、日記の執筆に1日を費やしたりということはなかなかしない。あくまでこの話はそういう空転から無関係でいられない——それはSNSでも同じことだろう——という感じを分析するために持ち出した極論だ。この「感じ」を分極してみてわかるのは、ひとつにはこれまで述べたような循環構造がそこにあること、そしてもうひとつは、そうした循環が「イベントフル」な状態への衝迫によって形作られていることだ。ここでようやくもとの話に戻れるのだが、毎日書くということは、「イベントフルネス」への希求を強制的に断念させされるということでもある。(次回へ続く)