日記の続き#28

日記についての理論的考察§3
(*各回を以下のタグから一覧できるようにしました)
イベントフルネスという罠が、日記と日々のウロボロス的な循環にわれわれを閉じ込める。これは極論に始まる抽象的な推論の帰結でもあるが、とてもプラクティカルな話でもあると思う。たとえば友達と遊んだとか映画を見に行ったとか、そういう「イベント」めいたものがある日ほど日記を書くのが難しい。というのもそういうとき否応もなく、そういうイベントのある私を見せたいという自意識(への猜疑)がくっついてきて、詳しく書くほどに実際起こったことを毀損しているような気がしてしまうからだ。あるいはそれらしいことがなくても、起きて朝食を食べてどこに行って帰ってきて何をしてというふうに、1日を小さなイベントの連続としてまんべんなく書くことは、困難ではないにしても端的につまらない。アテンションエコノミー的な自意識も罠だし、自分を機械的にイベントフルな日々に還元したいという苦味走ったセルフ・ディシプリンも罠だ。日記に固有の可能性はインスタグラムや日誌とは別のところにある。それを「イベントレスネス」と呼ぼう。和風の味付けで「寂び」とか言ってもいいのかもしれないが、もっとだらしないこと、ありていに言えば暇だということなのでイベントレスネスがちょうどいいと思う。