日記の続き#30

日記についての理論的考察§4
飛び飛びで書いているのでどうしても話が冗長になってしまうのだが、ふだんの文章では僕はむしろ冗長性を確保するのが苦手なのでかえってこれでいいのかもしれない。ということで前回の途中の話に戻るのだが、「イベント」めいたものとして友達と遊ぶことと映画を見に行くことを例に挙げた。こうしたことを日記に書くのが難しいのは、あらかじめイベントとしての輪郭が与えられていて、それ塗り絵のように埋めなくてはならないと思ってしまうからだろう。でも友達と遊んで楽しかったということは、こんなことがあってこんな話をしてということを書くより、たとえば帰りに携帯灰皿を見ると一本だけ友達のフィルターがそこに混ざっていたとか、そういう非本質的な小さなことを書くほうがいい気がする。詳しく書くほど毀損されてしまうようなタイプの出来事はあって、ある種のシネクドキに託すほうがかえって何かが保存されるということがある。難しいのはそれをもったいないと思う気持ちをいかに振り切るかということなのだけど、そこでもったいないと思ってしまうことがすでに、友達と遊ぶということをいいねがもらえそうな流通可能な「イベント」として捉えてしまっているのだという自己チェック能力を働かせるよりほかないとも思う。でも他方でそこまでメタ認知を働かせずとも、より坦懐に今日の何が私の心を震わせたのか、記憶に引っかかったのかと問いさえすれば、勝手にそういう便利な小さいものが出てくると思う。それが難しいのだと言われればそうかもしれないけど、それに勝てなくても日記は日記なのでいいと思う。そればっかりだと楽しくなくなってきちゃうよねという話。