日記の続き#33

日記についての理論的考察§5
「友達と遊んだ」といったいかにもイベントめいたものはかえって書くのが難しいという話、それを順序立てて書くより周縁的な小さなことを書いたほうがかえって何かが保存されるという話をした。この二重の「かえって」に含まれている逆説についてもう少し考えよう。書くべきことはあるのにそれにどう手をつけたらいいかわからない、あるいは、どう書いてもそのイベントの楽しさなり嬉しさなりが伝わらない感じがする、というのは文章力の問題ではない。むしろ「文章力」というものへの過剰な期待が書く手をスタックさせていると考えたほうがいいだろう。僕もこれだけ毎日文章を書いているとたまに文章が上手いよねと言ってもらえることがあるのだけど、挿入句がちょっと多いくらいでおおよそ平凡な文を書いていると思うし、それが上手く見えるのは、そういう人が抱えている「文章力」に対する屈託が僕には少ないからだと思う。要するにこれはナルシシズムの問題なのだ。どこかで腰が引けていたら似合う服も似合わないのと一緒で、文章力を上げるために努力をすることは逆効果だとさえ思う。この形式面での屈託は内容面の屈託と背中合わせになっている。つまり、あるイベントの輪郭がまずあって、それを埋めるように書きたい、でも文章力がないから書けないという循環に嵌ってしまっている。でもイベントにはあらかじめ輪郭なんてないのだ。ハッシュタグやアットマークが与えてくれる流通可能な輪郭に文章を従属させる理由なんてぜんぜんない。書くことで生まれる輪郭のうちに本当のイベントはある。でもそれはそれである種の切なさをともなっているとも思う。