日記の続き#54

日記についての理論的考察§10各回一覧
そう、テクストをプレーンに受け取ってもらうための鍵は信頼だ。こう言うとすごく当たり前の話に聞こえる。もうちょっと経済学的な言葉で「信用」と言ってもいい。ビリーフとクレジット。毎日書かれ、毎日投稿されるという信用がテクストを実体的——「実体経済」というときの「実体」と類比的な意味で——なものにする。ツイッターに溢れている、どんどん戦線が小さく小さくなっていくなかで加速するポジショントークは、メタレベルでの張り合いが通用する場としてのフィルターバブルと循環的に互いを強化する関係にある。フィルターバブルは言葉の価値の「バブル」を産むのだ。経済学的なバブルと違うのは小さくなるほど変動性が上がるということだろう。
しかし、つぶさに見てみると、ツイッターで起こる社会的・文化的な話の炎上は、たとえば芸能人の失言や失態に対して明示的な悪口が集中する炎上とは規模も質もぜんぜん違うように思える。インテリの縄張り争いは——インテリも亜インテリも変わらないと思う——メタな読みとプレーンな読みをそれぞれが自在にスイッチして、文字通りに読めばそんなこと言っていないとか、文脈や書き手の属性に照らしてこれはこう言っていることになるとか、字義性/解釈のメタ解釈のレベルでの闘争が起こっている。しかもそれは実のところ直接的な対決ですらなく、スクショを貼って嫌味を言うという形式が一般化していることに表れているように、あくまで言った/言われたを自陣に向けてアピールするためになされる。字義性という盾と解釈という矛。逆のほうがまだ知的じゃないか。