日記の続き#26

日記についての理論的考察§2
ふたつの極限的なケースのいずれにおいても、書き手は日々と日記の循環関係に囚われてしまっている。たしかフリオ・コルタサルの短編に、男が部屋で小説を読んでいてそのなかで殺人鬼が部屋に侵入し、椅子に座っている男を後ろから刺すとそれはその小説を読んでいる当人だったという話があったが、この読書を執筆に入れ替えたような循環が日記には避け難くくっついてくる。ラカンは主体の構造を〈数えるものが数えられるもののなかに含まれること〉と説明した。その限りで日々のなかで日々について書く日記は主体化の実践だ。
もちろんわれわれは日記を書くためだけに日々にイベントを詰め込んだり、日記の執筆に1日を費やしたりということはなかなかしない。あくまでこの話はそういう空転から無関係でいられない——それはSNSでも同じことだろう——という感じを分析するために持ち出した極論だ。この「感じ」を分極してみてわかるのは、ひとつにはこれまで述べたような循環構造がそこにあること、そしてもうひとつは、そうした循環が「イベントフル」な状態への衝迫によって形作られていることだ。ここでようやくもとの話に戻れるのだが、毎日書くということは、「イベントフルネス」への希求を強制的に断念させされるということでもある。(次回へ続く)

日記の続き#25

雨。しばらく前に暑い日が続いたとき、彼女が冬服をしまっていてまた寒くなるよと言ったのだが聞かず、結局また冬の部屋着を出して着ている。

日記についての理論的考察
ひとくちに日記と言ってもそのかたちは様々なので、ここでは僕が書いてきた日記が従っている(1)毎日書く(2)書いたらそのつど公開するというふたつの条件を満たしているものを対象として想定する。これら以外にも僕の日記の規則はあるだろうし、これらを満たしていない日記にもこの考察が寄与するところもあると思うが、とりあえずこのふたつを大枠とする。実際僕の日記の輪郭を形式面から規定する要因としてはこのふたつがいちばん大きいと思う。毎日書くという縛りがなければ書かないようなことを書いているし、今日はよく書けなかったなと思うと投稿ボタンを押すのに気が重くなる。
まず毎日書くということについて。ふたつの極端なケースを想像してみよう。書くことを作るために1日を無理やりイベントで埋め尽くすというケースと、1日中日記を書く以外のことをしないというケースだ。いずれも病的な感じがするが、僕は1年間日記を書いていてこの狂気のリアリティをうっすらと感じていた。気づけば日記のことが頭の片隅にあるということ自体が、この狂気の片鱗に触れていることを示しているだろう。一方で僕は日記に書くことを探し続け、他方で頭のなかでは何かがつねに推敲されている。ともすれば日々から日記の外部がなくなってしまうのだ。(次回へ続く)