日記の続き#68

6月13日。作業メモより。

  • 『非美学』第3章の第3節の下書きが終わったところで、数日スタックしている。
  • どうしてか:これを原稿にしてから次節に取り掛かるか、次節の下書きに移るか迷っている。
  • それにともなってツイッターやYouTubeに逃げている時間が増えている。
  • 互いが互いの逃げ場になりつつ、そこに均衡が生まれてしまった場合、くさくさした気分だけが堆積していく。恐ろしいことだ。
  • ここのところ記事やツイートの反応が引きっきりなしにきていることも、このざわざわした居心地の悪い均衡に関わっている。
  • そのほか微妙に頭に引っかかっている仕事もいくつかあり、それらすべてが蜘蛛の巣のように多方向にピンと張り詰めているのだ。
  • それを打破するためにこうして、千葉さんの真似をしてworkflowyでフリーライティングをしてみている。
  • こうしてみると、細かいことや生活リズムを整理したうえで大きい原稿に取りかかる——逼迫しているわけではない——のがいいのかもしれないとも思う。
  • でも「細かいことが整理される」なんてことは一生来ないので、長い目でやる作業の時間と細かいことを処理する時間を分ければ良いのだろう。
  • 最初の問いに戻る。
  • 内容の面からみると、手が止まっているのは第4節をどういうストーリーにするかということの見通しが立っておらず、それが第3節の堅牢性によることなのか判断がついていないと言い換えられる。
  • 第3節をしっかりやればおのずと次の道も見えるだろう、いやしかし…… と。
  • あらためて第3節の論旨ひとことで言うなら、『千のプラトー』には〈動物になること〉と超越的な〈人間であること〉のあいだに、内在的な形態としての人間というレベルが想定されており、これが本書の倫理的・批判的価値の源泉となっているということだ。
  • 人間を人間中心的=超越と人間形態的=内在にレベル分けしたうえで、後者を前者に宿りうる特殊な習性=錯覚として埋め込みなおすこと。
  • これが具体的には、イェルムスレウの二重分節の議論がどのように読み替えられているかということに沿って展開されるわけだが、これはかなり込み入った操作であり、気になっているのはこれがちゃんとできているのかということだ。
  • まあ……、できているとして進めるよりほかないだろう。
  • それで、できているとして第4節はどうするか。

(以下略)

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