日記の続き#78

「郵便的、宅配便的」というタイトルを思いついた。どういう内容なのかわからないままにタイトルだけ思いつくことがよくある。「理論の突き指」とか、「端末が「ターミナル」だった頃」とか。それはもちろん僕が考えていることと無関係ではないし、タイトルと一緒にある程度の方向性は浮かび上がるが、書いておかないと忘れるのでそのつど呟いたりするようにしている。最近で言えば「スパムとミームの対話篇」は依頼があって書き始める前にタイトルだけ思いついていて、そのお題に答えるようにして書いた。言葉遊びやパロディに圧縮されたものをどう具体的な文章として展開するかという、セルフ大喜利、あるいは自分の自由連想を自分で分析するみたいな感じで面白い。

それで、「郵便的、宅配便的」がどういう文章になりえるかというと、やはり郵便はポストに投函するものであり、宅配便は玄関先で手渡すものだという対立がまず思い浮かぶ。ポストとはデリダ的な「差延」の場、つまり現前的なコミュニケーションを毀損すると同時にそれなしには当のコミュニケーションが成立しない、不在の謂である。隔たっているからこそコミュニケーションが要請され、隔たっているからこそコミュニケーションは十全なものではありえない。それに対して宅配便は差延を許さない。チャイムを鳴らし、いなければ不在通知書をポストに入れて帰っていく。不在が不在としてマークされるのだ。郵便はいるかいないかということに頓着しないが、宅配便はいれば渡すし、いなければ私はそこにいました、しかしあなたはそこにいませんでしたと、不在を局在化させ、それ自体をコミュニケーションの明示的な要素にする。郵便的な不在はいつ・どこでなくなるかわからないという不確定性によって効果をもつが、宅配便的な不在は特定された不在として位置をもっている。

しかし、コロナ禍によってアマゾンやウーバーイーツが取り入れ、急速に一般化した「置き配」はこのうちいずれに分類すべきなのだろうか。一見それは受け取り手の在/不在に関与しない郵便的な仕組みに見えるが、アパートのドアのそばに置かれた荷物を見ると僕はいまだに不気味な感じがする。それはたんに、慣れ親しんだ宅配便的インフラが急に郵便的仕組みを取り入れたことからくる違和感なのだろうか。たしかにそういう部分もあるだろうが、それ以上のもの、つまり置き配的なものの固有性があるとしたらそれは何だろうか。

ひとつにはドアの外の床に箱が置かれているということからくる疎外感があると思う。投函でも手渡しでもなく、床に置かれている。印象としては、郵便的不在には自分がそこにいるかいないか不問にしてくれているという感じがあるのに対して、置き配的不在は自分がそこにいるかどうかはたんにどうでもよく、とにかく荷物を置いて帰っているという感じがある。逆に言えばこの「とにかく」の直接性を和らげるものとしてポストは機能するわけだ。郵便は受け取り手の在/不在をそれとなく不問に付すのに対して、置き配は受け取り手の在/不在以上にとにかく荷物を置いていくことが大事なんだとあからさまに示している。

ロジスティクスの全面化。あらゆるものが出発点、終着点、経路、荷物のアレンジメントの規格化・効率化に巻き込まれる(「コントラ・コンテナ」は大和田俊の個展の分析を通してそれに対する抵抗の可能性を探る文章だった)。私がいるのかいないのかということはそこにいささかも関与しない。郵便的なものの局所的な回復はありえるだろう。しかしコミュニケーションそのものがロジスティクスに置き換わってしまったような世界で、郵便というメタファーはあまりに危ういようにも思える。「コントラ・コンテナ」や「ポシブル、パサブル」の空間論はロジスティクスそのものから距離を取って空間を考えなおす文章だったのだろう。「いてもいなくてもよくなることについて」もそうだ。やはりたんに思いついたものでも掘ってみるといろいろ出てくる。(2021年11月28日