日記の続き#81

日記についての理論的考察§13各回一覧
ドゥルーズ゠ガタリの『カフカ:マイナー文学のために』第4章は、カフカの散文を手紙、短編小説、長編小説に区切って論じているが、章末に付された長い註で、著者らはカフカの日記を取り上げられなかったことを悔やんでいる。彼らが言うには、日記はカフカのコーパスにおいてあまりに全面的であるので、それに特定の役割を代表させることができなかったのだ。「芸術と生は、メジャー文学の観点から見るときだけ対立し合う」(宇野邦一訳版、83頁)のなら、生きることと書くことの最小回路を形成する日記はまさにマイナー文学だと言えるだろう。もちろんこれを、日記はマイナーで長編はメジャーというジャンル間の対立に差し戻してしまっては元の木阿弥だ。ドゥルーズ゠ガタリはマイナー文学をいわゆるメジャーな文学のなかにさえある文学の革命的な条件としているのだから。しかしやはり、〈その日あったことを書く〉という形式のあっけなさは、「文学的」なものに見込まれる〈個人的な生/それを書くテクスト〉の階層化、ひいては表層としての後者を通して深層としての前者を解釈する〈シニフィエ/シニフィアン〉の階層化を骨抜きにする力があると思う。彼らは欲望機械は壊れることで作動するような機械なのだと言ったが、噛み合わない生活と日記のあいだをすりぬける隙間風のようなマイナーな運動が日記を文学機械にする。散文が素っ気なくなるほどに、生活は書かれる前から表現であふれていく。