日記の続き#83

風邪のせいなのかポカリの飲み過ぎなのかわからないが、口の中のpH値が変わったような違和感がある。 あるいは口の中が安いホテルのカサカサしていると同時に湿ってもいるようなベッドになったような違和感がある。あるいは風邪を引いてポカリを飲みまくったときのような違和感が(あまりにわざとらしい)。とか考えながら二度寝をしていて、この日記の続きのありかたを考えていた。2ヶ月以上続けているのにいまだに「続き」と銘打つ積極的な理由が見つからずにいるのだが、これはシンプルに新しい文学理論を作るための実験なのだと考えればいいのかもしれないと思った。他のジャンルもそうだと思うが文学も、ジャンルを閉じたものとしたうえでのフォーマリズム的な理論とそれを社会的領野に置きなおす理論とが、後者が前者を乗り越えるというストーリーのもとで分離していて、そこで停滞しているのがこの10年だか20年だかだと思う。文学論を小説論に固定してしまうこと自体がそうしたそういう行き詰まりを生んでいて、「小説と社会」とか「小説と私性」とか、芸術と非芸術を項として立てたうえで両者の関係を——たいてい自分を芸術の側に置きながら——問うことに何かのロックがかかっているんじゃないかという気がする。これはいちばん低層では小説だからなんだというチンピラ的な怒りでもあり、ささけんさんへのインタビューで話したレッサー・アートやドゥルーズ゠ガタリのマイナー文学の話でもある。ポジティブにはこれまで「日記についての理論的考察」で素描してきたような多面性が日記にはあるし、なにより日記は誰しもいちどは書いたことがあるし書こうと思えばいつでも書ける。とはいえこれを形にするうえで『日記〈私家版〉』のように何も手を加えずに本にするというのはあんまりやりたくないので、構成を考えるのがいちばん難しいと思う。とりあえずタイトルは『日記と理論——ある文学機械の日課』とかがいいんじゃないか。