日記の続き#113

昨日のこと。相模湖からの帰りに横浜駅で彼女と合流して、週末帰省するときに親に渡すお土産を高島屋で買った。こないだ父からお中元の桃が届いて、そのお返しだ。結婚してからというもの、われわれと彼女の両親とうちの両親のあいだで、折に触れて何かが送り合われている。いまだに自分が構造主義的民俗誌の一コマになったようで落ち着かない。構造というのは恐ろしいもので、彼女の親は僕の「親」でもあるわけだが、親が増える——入れ替わるのなら話としてはわかる——というのはとても奇妙なことだ。しばらく前に友達に結婚について相談されて、例に漏れずそれは彼女にそれとなく結婚を迫られているという話だったのだが、僕は大きく言ってふたつのことを伝えた。ひとつは穏当な話で、そうはいっても結婚をめぐって女性と男性を取り巻く状況には非対称性があって、べつに僕らが結婚しようがしまいが誰も気にしないが、女性はなかなかそうはいかないし、他方でこれだけ夫婦別姓や同性婚が叫ばれるなか結婚したいと言うことの「ダサさ」もプレッシャーとしてある、それは考えてみてもいいのではないかということ。もうひとつは、親が増えるというのはとても奇妙なことで、これは面白いといえば面白いということ。じっさいたとえば彼女の親御さんは僕が日記本を出そうとしているのをなぜか知っていて、資金が足りないなら貸すとすら言ってくれたし(借りずに済んだ)、それはものすごく変な関係なのだと。そしてこういう「無理」を維持するためにものが送り合われる。それは面倒なところもあるが、逆に言えばそこには関係のはかなさへの自覚みたいなものがあって、それはそれで切実なことなのだと。そう僕が通話で話しているのを彼女が聞いていて、変わったねえと感心していた。