日記の続き#125

八月の30年——8歳

けっきょく記憶をたぐりよせるのに年齢、西暦、学年に始まって、今回の8歳だったら3歳から習っていた水泳をやめてサッカーにシフトしたこととか、そういう大きいことから小さいことへ外堀から埋めていくのに頼りがちになってしまうことについて、どうなんだろうと思っている。まあ入る道と出る道は必ずしも同じでないわけで、入っていって見つけたものを「ライフステージ」に再回収することをやる気で——こればっかりはやる気に頼るしかない——避けていけばよいのだろう。それで8歳というと、たしか地元に井原線という小さな私鉄が開通した年で、それは井原市を東西に横断するだけの端から端までとくに何もない線で、僕も結局数えるほどしか乗ったことがないのだが、開通の式典に学校ごと呼ばれて「いっくん」という井原の「井」の字のゆるキャラが書かれた小さな旗を持たされた。その年かその次の年に何を思ったのか天皇と皇后が井原にやってきて、今度は日の丸の小旗をもたされて井原駅で行われた式典にまた学校ごと動員された。そのとき撮影された写真がどこかで売られていたのか、父方の祖父母の家の長押にふたりの写真が飾られていた(祖父母が死んで家は無人になったが、写真は今もあるはずだ)。居間を囲む長押には他にも、その家の周辺を空撮した写真(そんなものを撮って売るサービスがあるのだ)、天狗のお面と能面(子供の頃それが怖かった)、生まれたばかりの兄を描いた父の鉛筆画(彼は絵が得意だった)、そして神棚といった奇妙な取り合わせのものが並んでいた。天皇皇后の写真は奥の仏壇がある壁に掛けられていて、仏壇の横にはテレビがあった。正月に親戚が集まるといつもそのテレビで駅伝が流れていて(言うまでもなくお盆は甲子園だ)、僕は兄やひとおおり配膳を終えた母と末席のほうに座って何が面白いんだろうと思っていた。