日記の続き#133

八月の30年——16歳

高校は昔「千鳥女学園」とかそういう名前だったらしく、「笠岡高校」となってからも「千鳥」と呼ばれていた。漫才コンビの千鳥の名前の由来になった高校だ。彼らは千鳥と隣接する笠岡商業高校で出会ったのだが、ふたりとも千鳥に憧れていたということらしい(僕が入ったときは定員割れで憧れられるような学校ではなかった)。いつだったか千鳥のふたりが母校を訪れる番組で、両校が接して形成される三角形のどん詰まりの敷地に住んでいる「小寺のおばちゃん」が出てきて、僕もサッカー部の練習中に柵の向こうから野次られたりしたことを思い出した。両校が体育祭の練習を始めるとうるさくてかなわないと言っていてそうだろうなと思った。千鳥の岡山弁はもはや千鳥語で、岡山出身の芸人というと最近だと見取り図のリリーやウエストランドのふたり、東京ホテイソンのたけるとかかが屋の細いほうとかがいて、前回のM-1はとくに岡山出身者が多かったということだったが、誰も岡山弁を話さない。いつかの「しくじり先生」に東京ホテイソンとウエストランドが出ていて、いかに岡山弁でお笑いをやるのが難しいかという話をしていたのを覚えている。彼らも千鳥の岡山弁は特別だし、それも関西弁との折衝を経由したからできたものであって、いきなり東京に出てきて岡山弁を出すのはとても難しいのだと言っていた。それにしても僕は高校を出て6年大阪にいたのだが自分なりの千鳥語を編み出すことなく終わった。関西弁との距離と書き言葉的な話法への接近で方言は押し潰されてしまったのだろう。両方岡山出身のウエストランドですら岡山弁で漫才をやってみろと言われてしどろもどろになっていた。話芸といえどもたんなる口語ではないのだろう。