日記の続き#138

八月の30年——21歳

僕がシネフィルっぽかったのは学部生のあいだだけだったと思う。十三の七藝、九条のシネ・ヌーヴォ、茶屋町のロフトの地下にあるテアトル梅田、スカイビルのシネ・リーブルに通って、ありとあらゆるレトロスペクティブをチェックして、タル・ベーラやアピチャッポンやギョーム・ブラックの新作を見ていた。固有名の次に思い出すのはなぜか、いつもお腹が空いていたなということだ。いつも上映ギリギリに着く時間に家を出て、席に着いた時点でそのことを後悔していて、見終わるとすぐマックとかに入ってお腹に何かを入れる。七藝の向かいにある半分屋台みたいな、チャンポンみたいなスープの担々麺みたいに挽き肉が入ったラーメン屋にもよく行った。そしていつもひとりだった。おなじ美学専攻の学部生が僕以外みんな女性だったということもあるし、それで院生の演習にまで出て偉そうにコメントしたりしていたから、今思えば敬遠されていたのだろうが、ぜんぜん友達ができなかったのだ。学部時代でいちばん多く言葉を交わしたのは指導教員の三宅先生だと思う。喘息持ちで煙草もばかばか吸うので、いつも身をよじるように咳をして、水筒からお茶を飲んでいた。講義ではエイゼンシュテインからシーモア・チャットマンまで映画理論の歴史を膨大な引用集をもとに話して、演習では何年経っても第8セリー以降に進まない『意味の論理学』原書講読をやっていた。中世哲学が専門の博士課程の先輩が、いつも枕くらい大きいリトレの辞書を持ってきていた。