「日記も哲学も同じ散文」選書コメント

*ブックファースト新宿店で7月から8月末まで開催された選書フェア「日記も哲学も同じ散文」の冊子に寄せたコメントの再録です。本企画のきっかけとなった『日記〈私家版〉』の紙版は完売しましたがPDF版は販売中なのでぜひチェックしてみてください。

概要

僕は普段おもに哲学の論文や批評の文章を書いているのだが、去年ふと自分のウェブサイトを作って、そこに日記を毎日投稿し始めた。丸一年書いたその日記をまとめて、今年5月に『日記〈私家版〉』として自主制作し、365部限定で販売を開始した。この選書企画もその刊行記念として開催していただくはこびとなっていたのだが、予想外の売れ行きで企画が始まる前に在庫がなくなってしまい、「完売記念」の企画となってしまった。本の完売が祝われるところは僕も見たことがないのでこれはこれでいいのかもしれない。

ともかく、このたびは「日記も哲学も同じ散文」というテーマのもと、30冊ほどの本を選び出し、それぞれに紹介のコメントを付した。9個の小テーマを設け、そのなかに3冊ほどをなるべくジャンルを跨いで並べている。哲学、言語学・言語論、文学作品が多くを占めおり、およそまとまりのないラインナップとなってはいるが、このまとまりのなさは現代の散文を取り巻く高度に複合的な力場の実際でもあると思う。この選書があらためておのおので「書くこと」のポテンシャルについて考えるきっかけになれば嬉しい。

1.     想起と記述のワンダー

福尾匠『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』フィルムアート社

いきなり拙著で恐縮なのだが、同じ人間のやることなので、ドゥルーズ『シネマ』を通して考えたことと日記のあいだには繋がりがある。『眼がスクリーンになるとき』の第5章では、思考と時間の関係についてのドゥルーズの議論に取り組んだ。彼は、ものを考えるというのは、今日の次に明日が来るという単線的な時間から抜け出して、歴史が形作る地層から新たな断面を切り出すことなのだと述べた。場所によっては地層の重なりが各地層の形成された年代順とは異なっているように、そこでは非時系列的な時間が編み上げられる。ところで、日記を書いているときのいちばんのワンダーは、「今日」のことを書いているはずなのにいつのまにか違う時間に迷い込んでいるときである。

柴崎友香『ビリジアン』河出文庫

この小説にはそうしたワンダーが溢れている。ある少女の10歳から19歳までの日常が連作の短編で切り出され、そのなかで彼女はしばしば「いつか」の自分に出くわす。思い出すという行為がそのまま外界に投げ出されてあるようなこの小説の世界は、私「が」過去「を」思い出すというときの助詞に宿っている方向性を撹乱する。その意味で彼女は鏡の国に迷い込むアリスに比せられるだろう。過去が私を思い出す。私を過去に思い出す。思い出すが過去を私に。

貞久秀紀『雲の行方』思潮社

本書は詩人である貞久による、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(後出)を想起させる断章形式で書かれた言語論だ。「ながめているうちにこの枝のゆれが何かそれとはべつのふしぎに静かなものを暗示しているように感じられながらも、そのふしぎに静かなものは何かと問われれば、それは目の前にあってすでに明示されている当の枝のゆれにほかならない」。彼はこの奇妙な回転扉のような詩的記述の論理を「明示法」と名づけている。もっとわかりやすそうな例を考えてみよう。道端で見かけた花の名前がわからず、連れに「この水仙は何ていう花だったっけ」と問うて、呆れた顔で「何って水仙でしょ」と言われて、初めて自分がすでに「水仙」と口にしていたことに思い当たる。ぜんぜんわかりやすくならなかった気もするが、とりあえずこれで何か引っかかった人はぜひ読んでほしい。少なくとも僕はそれが水仙であると同時に何の花かわからないみたいな状態は、けっこうリアルなものとしてあるように思うし、ただそこに明示されてあることを記述する面白さはそこにあると思う。

2.     散文の分散

田中裕介(編)『無数のひとりが紡ぐ歴史:日記文化から近現代日本を照射する』文学通信

多くの日本人にとって、初めて日記を書くのは小学校の宿題としてだろう。これは明治に近代的な国語教育が始まったときから埋め込まれている制度であり、その意味で日記は表現行為と制度の交差点にある。さらにそれは文学と政治の領域をまたいでなされた言文一致運動と同時代であり、「小国民」の涵養としての教育が富国強兵的なイデオロギーと骨絡みとなった時代でもある。学校に提出する日記は、それを通して教師が家庭での行いを監視する装置ともなり、フーコーのいう「規律訓練型」権力の私的領域への侵入経路でもあった。しかしそれはたんに、言語表現が権力に攻囲されて身動きが取れなくなったという話ではない。たとえば僕は夏休みの最後の日にまとめて1ヶ月分の日記をでっち上げるような怠惰な子供だったが、それはミニマルな抵抗行為=表現でもあるだろう。その両義性をポジティブに捉える回路が日記にはある。

フーコー『言説の領界』河出文庫

本書はフーコーの講演録で、本文自体はとてもコンパクトなものだ。しかし訳者の慎改康之による膨大な訳注と解説(さらにその注)によって、ほとんどこの1冊で「フーコー入門」としての役目を果たしうるものとなっている。講演のテーマは〈言葉を生産や流通といった経済学的な枠組みで扱うための方法論〉だと言えるだろう。言葉が裸で放り出されることはなく、流通する言葉は物質的、文化的、政治的等々の衣装をまとい、われわれが言葉の「意味」や作者の「意図」と言葉の直接的な関係を言おうとするとき、そうした衣装は括弧に入れられる。それに対してフーコーは、言葉からその内面的な核に向かうのではなく、言葉が分散的に、つまり言葉どうしが互いに外在的に繁茂し組織されるその広がりの外在的な形式に目を向けなければならないと述べる。散文はまさに「散−文」であるわけだ。それは内面的な自由とその外在的な抑圧という図式では捕まえられないところにある。よりとっつきやすいものとして慎改康之『フーコーの言説』(筑摩選書)もオススメ。

トーマス・S・マラニー『チャイニーズ・タイプライター:漢字と技術の近代史』中央公論社

僕はいまアルファベット入力のキーボードでこの文章を書いていて、「東京」と打つためにはtoukyouと打って変換する必要があり、しかもこれは「Tokyo」というローマ字表記と食い違っている。考えてみればこれはとても変なことだ。パソコンのキーボードは19世紀に発明されたタイプライターに由来するが、「書く機械」としてのタイプライターからワープロ、パソコンへという流れが単線的に見えるのはあくまでアルファベット圏にとっての話だ。マラニーはこれをキーボードの左上に並ぶ文字列から「QWERTY的なるもの」と呼び、本書はQWERTY的なものとの絶えざる衝突として中国語タイプライターの歴史を描く。たとえばわれわれのスマホのフリック入力がQWERTY帝国主義への抵抗であるとして、われわれはその政治性をどれくらい意識し、日本語のありかたを考える通路としているか。マラニーが技術言語学的(techno-linguistic)と呼ぶ領野の探求は、散文のフーコー的な分散を考えるうえで欠かせないだろう。フーコーは仏語タイプライターのキーボードに並ぶAZERT(英語のQWERTに対応する位置にある)は言表ではないが、それがタイプライターのマニュアルに印字されたものは言表であると言っていた。ふたつのAZERTのあいだでいったい何が起こっているのか。

3.     群れのなかの言葉、群れとしての言葉

グレッチェン・マカロック『インターネットは言葉をどう変えたか:デジタル時代の〈言語〉地図』フィルムアート社

「ツイッター構文」とか「なんJ構文」とか「LINEおじさん構文」とか、インターネット上のプラットフォームは何か特定の口調を呼び寄せるようだ。それはおよそ言語学に閉じ込めることができないような、きわめて雑多な領野を横断して作られているように見える。たとえば「草」が笑いを意味するまでには、まず日本語対応していないオンラインゲーム上のチャットで「(笑)」が「(warai)」と表記され(ここにもQWERTY的なものが顔を出している)、それが短縮され「w」になり、これが動画プラットフォームのコメントや掲示板サービス上で「wwwwww」と連打されるようになり、その様子が草に見えるので笑うことを「草を生やす」と言うようになり、それがまた短縮されて「草」と言われるようになった。このプロセスに見られるような複合的な力場にわれわれの言葉が深く投げ込まれているとして、それに対して超然と「文法」や「美文」に引きこもるのではなく、そのただなかで言葉を連ねることにポジティブな意味を見出すことはできるだろうか。

ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』未来社

バフチンと言えばドストエフスキーの小説を「ポリフォニー」的な語りとして読んだ人だというのがいちばん一般的な理解だと思う。「ポリ」とは「複数の」という意味だが、『マルクス主義と言語哲学』では文字通り、複数の人々のあいだで言葉がどのように流通し機能するかということがより言語学的な観点から論じられる。ひとことで言えば、バフチンは〈群れのなかの言葉〉のありかたを〈群れとしての言葉〉のありかたから分析する視座を開拓したのだ(のちに「社会言語学」と呼ばれることになるものの走りだと言えるだろう)。言葉を心理や論理や文法のもとに回収するのではなく、むしろそれらを火花のように生み出す雑然とした相互作用の場として言葉の群れを捉えること。「言葉が内的人格の表現であるのではなく、内的人格とは表現され内部に追い込まれた言葉である」。各人にそのつど人格=人称を割り当てる言葉の流通形態としての直接話法・間接話法の分析は、ドゥルーズの「自由間接話法」論の重要なインスピレーションともなっている。

ジョン・R・テイラー『メンタル・コーパス:母語話者の頭の中には何があるのか』くろしお出版

言語学はチョムスキー以来、言語を辞書+文法書モデルで考えてきた。一方に語彙のコレクションが、他方にその配列の規則があり、ふたつの知識を組み合わせることで文が生成されるというモデルだ。しかしとりわけ、膨大なコーパスを収集し統計的に処理する情報技術が発展してから、このような見方では説明できないことがあまりに多いということがわかってきた。たとえば英語では”total success”(完全な成功)という組み合わせより”total failure”(完全な失敗)という組み合わせの用例が圧倒的に多い。このような文法的には等価だが統計的に明らかな不均衡がある場合、チョムスキー的な枠組みではそれを理論の外に追いやることしかできない。それは「言語そのもの」に関わることではなく、その偶発的な運用に関することなのだと。しかし「言語そのもの」なんて世界のどこを探しても見つからないだろう。そういう相対性理論以前の「エーテル」みたいな仮想の抽象的な存在をあてにするのではなく、実際の言語使用のなかから浮かび上がる統計的な規則の側から見ることで初めて、〈群れとしての言葉〉の分散の形式を捉えることができるのではないか。

4.     散文切り売り量り売り

サミュエル・ベケット『モロイ』河出書房新社

ページを開いたときの文字の量感で読書の質は大きく変わるものだと思う。僕のなかでそのマッシブさの極北に位置するのがこの小説で、僕がこうして読んだり書いたりを仕事にする前、自分で何か書けるとも思っていなかった頃の、ただただ読書そのものに没頭していたような時期にのめり込んだ本でもある。僕が読んだのは絶版になっているらしい白水社の安堂信也訳で、いまはもう手元にはないのだけど、その内容よりもまずページを埋める文字の群れの質感が思い出される。モロイが経験する思考のあてどない錯乱と行動のあてどない彷徨(そのふたつももはや区別できなくなる)は、あたかも彼がこの本の文字を真似ているかのようだ。段落分けさえほとんどなされていない。段落が節を呼び節が章を呼び章が本を呼ぶ、そうした建築術的な文章観から散文が溢れ出したかのように。

ウィトゲンシュタイン『哲学探求』講談社

ウィトゲンシュタインは本書を「アルバム」みたいな本だと言う。たしかにこの本は、いかにも哲学書っぽいグランドデザインを作ってからその各項目を埋めていくような書き方ではなく、広い庭に石を置いてはそれを近づいたり離れたりしながら眺めて次にどこに石を置くか考えるような、いつ終わるともしれず同時にいつ終わってもいいような書き方がなされているように思う。言語とはどういうものかという問題から哲学とはどういう言語である(べき)かという問題へと徐々に重心が——ミクロに行きつ戻りつ——スライドしていく。しかしこうした整理も反省的なものであって、読んでいるときのどこにいてどこに向かっているのかわからない生々しさのほうがこの文章のリアルだと思う。それはこの文章の主題である思考そのもののリアリティでもあって、思考、意味、理解に想定されてきた瞬間性が溶かされて間伸びした時間に置きなおされていく。アルバム的な構造はその主題に形式面で対応している。

千葉雅也『ツイッター哲学:別のしかたで』河出文庫

「なぜツイッターの140字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである」。ツイッターがメタとベタをスイッチしながら言った言われたといがみ合うゲームに覆われてしまってからあらためて本書を読むと、胸がすくような思いがする。「散文の分散」セクションに書いたような制度的な拘束と戯れる実践だと言えるだろう。日記は毎日が締め切りであり、そこには思い出して書くという時間的なタメがあるとするなら、本書にはほとんど思いついたそばから忘れてしまうようなあっけない思考のきらめきが確かに留められている。いちばん好きなのは次のツイート。「二兎を追ううちに、自分が三番目の兎になって走っていること。そういうのがいい。[2013-02-15 23:55]」

5.     剥離したテンプレート

青木淳吾『このあいだ東京でね』新潮社

日記やエッセイを書いていていちばん手っ取り早くそれっぽい文章にしたければ、料理の描写か都内の移動の描写をすればいいと思う。行為をそのまま書くと自動的にいろんな名詞が出てきて、しかもそれぞれが喚起的な響きを持っているからだ。東京はあらゆる地方の日本人の頭のなかに地名のコレクションとして埋め込まれていて、僕のような地方出身者にとってはそれこそが「東京」であり、たとえ地名がランダムに繰り出されても何かの風情を感じてしまうだろう。もちろん青木のこの小説がそうした手っ取り早さに逃げているわけではないが、この小説に漂う〈どこかで聞いたことがあるが、しかしそのリアリティが奇妙に剥離している感じ〉は、やはりきわめて東京的なものでもあると思う。

荒川洋平『日本語という外国語』講談社現代新書

いつかどこかで読んだ、「国語学会」が「日本語学会」に改称されたのは2004年であるという話が妙に頭に引っかかっている。ド真ん中の専門家が集まるアカデミックな場ですら、20世紀が終わるまで国語を日本語として対象化することができなかったのだ。それまで外国人研究者はこの学会に参加するときどういう気持ちだったのだろうか。われわれは日本語が上手な外国人を見ると、日本語は難しいでしょうとつい言いたくなってしまう。漢字仮名交じりで、人称が曖昧で、語尾のニュアンスが複雑で……と。もちろんそういう難しさは実際にあるだろうが、本書を読んで驚くのは、日本語教育の現場ではきわめて実際的かつ効率的にその複雑さが割り切られていることだ。本書を読んでいると自分が普段どれだけせせこましい「含み」に寄りかかって言葉を使っているかということに気づかされる。

芹澤健介『コンビニ外国人』新潮新書

戦前・戦中の日本はアジアや南洋の地で日本語を「帝国」の共通語として教育していたが、現代の外国での日本語教育は経済的な理由でなされている。いわゆる「出稼ぎ」の外国人のための日本語学校は国内だけでなく国外にも数多く存在し、その一部には悪質な斡旋業者と組んで過酷な職場に技能実習生として来日した外国人を送り出している学校もあるという。日本は公式に移民や難民としての地位をもつハードルがとても高い国だが、いまや日本に中長期で滞在する外国人の数は国民人口に対して2%の数に達している。先述の「実用的」な日本語にはたんにわれわれが蓄積している閉鎖的な含みを相対化してくれるという側面だけではなく、それによって都合のいい労働力を効率よく供給するという側面もある。そのアンビバレンスから逃げないでいることはできるだろうか。

6.     収まりの悪い生活

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『カフカ:マイナー文学のために』法政大学出版局

本書で提唱されるマイナー文学は、ひとつには「マイノリティの文学」のことだ。俗語としてのチェコ語、宗教的なイディッシュ語、そして行政的なドイツ語という多言語的な環境に引き裂かれたカフカの書くドイツ語は、彼が置かれたマイノリティとしての社会的ポジションと切り離せない。しかし他方で、マイナー文学は「マイナー化」の実践でもある。メジャーな〈文学〉や〈国語〉から抜け出ることの創造性をポジティブに捕まえる実践として、ドゥルーズ&ガタリはカフカの文学を読み解いていく。そういえばカフカも日記をたくさん書いていた。

エリザベス・グロス『カオス・領土・芸術:ドゥルーズと大地のフレーミング』法政大学出版局

ドゥルーズの芸術論の特徴は、そのどこをとっても「芸術未満」の実践への着目があることだと思う。たとえば『千のプラトー』の音楽論は、子供が暗闇で鼻歌を歌うこと、あるいは、主婦が隣家のラジオの音をうるさく思うこと、といった、およそ非芸術的なケースを出発点としている。そこで問題となっているのは、われわれの領土=テリトリーとそれを脱領土化するカオスの関係であり、その意味で鼻歌と家事housekeepingはまさに切り離せないものとしてある。音楽はわれわれが置かれた領土化/脱領土化の運動を整流しもしれば加速しもする。日記は一面では日付にかこつけて日々を領土化する散文だろうが、他面ではふとした瞬間にわれわれを日々から抜け出させてくれる風のセンサーともなる。

エミール・ゾラ『居酒屋』新潮文庫

「この作品は嘘をつかない。民衆の匂いが染みついている。民衆についての真実の書、民衆についてのはじめての小説である」。これは本書の緒言にある著者の言葉だ(僕はこういう前口上がある昔の小説が好きだ)。ゾラのこの小説を読んだのは大昔なので内容はまったくと言っていいくらい覚えていないのだが、生活にこびりついている惨めさが怖いくらいの執念で描かれていて、街の真ん中にある居酒屋の蒸留器や屋根から落ちて身を持ち崩す大工に託されたどうしようもない感じをはっきりと覚えている。あまりにもどうしようもない出来事に溢れているので、このどうしようもなさを「社会批判」として切り出すことすら不適格なんじゃないかと思う。これは生活そのもののどうしようもなさだ。それは振りほどきようもなくわれわれの背後にくっついてくる。なぜか。それはわれわれが逃げるスピードを燃料にしているからだ。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫

村上春樹の小説でもっと好きなものは他にあるのだが、散文というテーマで言えばこの本を選ぶのがいちばんいいだろう。「文化的雪かき」という有名な言葉が出てくるからだ。本書の主人公は雑誌の広告記事を書いたりするフリーライターで、自分の仕事なんて文化的雪かきにすぎないのだと言う。それが、じゃあ官能的雪かきをしましょうと女の子が言って主人公とセックスする場面に繋がっているから、春樹アレルギーのある人にとっては許し難い感じになるのだが、最後まで読むとわかるのは本書がそうした雪かき的なものからの脱却の物語であるということだ。いろいろあって最後に主人公は、これからは広告でも小説でもなんでもない「ただの文章」を書くのだと決心する。しかしそれは雪かきからの単純な脱却ではないだろう。雪かきの外に自己充足があるのではないし、本書に物書きに向けたメッセージがあるとすればそれは、雪かきのなかに「ただの文章」を探すことがフェアな生き方なのだということだと思う。誰かが雪かきをしないといけないということは動かし難い事実なのだ。

7.     哲学の口先

イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』勁草書房

20世紀に入って哲学には「言語論的転回」が起こったと言われる。もちろんそれ以前も哲学は言語について様々な議論を組み立ててきたが、言語論的転回によって哲学者たちは言語を、たんなる分析対象ではなく自身が用いるツールという観点から研究するようになった。論理はもはや観念的な思考の法則ではなく記号の体系であり、真理への漸近はその体系の整備とイコールになった。哲学者たちは突然、自分らが「何を」語るかではなく、自分らが「どうやって」語っているのかということを気にし始めたのだ。ツールであると同時に、真理の直接的な把握を阻むものとして言語は「気になる存在」になった。その果てに僕は日記を書いているのかもしれない。

ハイデガー『存在と時間』作品社

ハイデガーは本書の冒頭で、自分の使う言葉におよそ一般的なものではない語彙が多く含まれることを断っている。「現存在Dasein」とか「手許存在Zuhandensein」とか、そんなゴツゴツした言葉をわざと気を衒って使っているわけではないのだと。言語哲学の系譜には属さない彼も自分のツールが気になるのだ。原著を読むドイツ語話者にとってもそうであるならそれをさらに造語に翻訳した熟語を読む日本語話者にとってはなおさらだろう。哲学はイデア(古代ギリシア語で「見えるもの」とか「形」という意味)とかコギト(ラテン語の「考える」という動詞の一人称単数形)とか、きわめて一般的な語に変な意味を託してきた一方で——とりわけハイデガー以降——変な意味の変な言葉を使うようになった。ここから生まれる問いはふたつ。どうしてそんなことになったのか(これはphilosophyを「哲学」という造語で訳すことに始まった日本の近代哲学史にとっては一層重要な問いだろう)? そこにポジティブな意味があるとしたらそれは何なのか? ハイデガーの実直さに敬意を表しつつ、とくに「真面目な」文章で自分の書く奇妙にゴツゴツした散文がどこから来てどこに行くものなのか考えたい。

フロイト『精神分析学入門』中公クラシックス

フロイトも言語哲学者ではないが、言葉のことをいつも気にしていた。精神分析の臨床は語りと聴取の実践によってなされるし、本書に収録された講義の初めに彼が分析するのは「言い間違い」である。それは彼にとって昼の論理と夜の論理、意識の論理と無意識の論理の衝突が生み出すものであった。「無意識は言語のように構造化されている」と言ったのはのちのラカンだが、フロイトにとってすでに無意識という彼自身が発見=発明した領野は、意識的思考とはべつの論理に従った言葉がうごめく世界であった。

加えて、僕がこの本が好きなのは、各回の冒頭でフロイトが「みなさん!」という掛け声とともに講義を始めることだ。ハイデガーの実直さに似て彼も、自分が説明する無意識という仮説、そしてあらゆる欲望はそこにある性的なエネルギーによって生まれるという仮説が、この非専門家に向けられた授業において、どこまで常識外れなものに聞こえるかということを気にしていた。そういう距離感を見失いたくなくて日記を書いたところもある。日記を「みなさん!」と言って始めるわけにはいかないが、ともかく。

デリダ『散種』法政大学出版局

本書は三つの長い論考が収録されたもので、それぞれのテーマにも繋がりがあるが、とりわけ「プラトンのパルマケイアー」には、デリダのエクリチュール(書き言葉)論のキモがよくまとまっている、というか、およそ「よくまとまっている」とは言い難いのだけど、込み入ったところは飛ばしてエピソードの羅列として読めば感覚的に入りやすいのではないかと思う。デリダと言えばポストモダン思想を蛇蝎のごとく嫌っている人にとっては哲学を言葉遊びの場にした張本人だが、デリダが問うているのは「真面目な」言葉と「ふざけた」言葉の区別に存している政治そのものであって、SNS上で繰り広げられている言葉の解釈の奪い合いを日々見ているとなおさらアクチュアルな問いだと思う。同じ人が一方で「あいつは冗談が通じない」と言い、他方で「これは文字通りに受け取るべき」と言うような、言葉のメタ的なカテゴリーの奪い合い。日記がいいのは味も素っ気もない日付がメタテクストになっているところだ。あわせて、これは入門書とは言いがたいが、この選書のほかのトピックとのつながりを加味して東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』をオススメする。

8.     日記の自意識

ラカン『精神分析の四基本概念』岩波文庫

「自意識過剰」という言葉があるが、それは人間にとってデフォルトであって、この場合の自意識を精神分析では「超自我」と呼ぶ。それは自分を観察しジャッジする自分であり、コンビニで唐揚げ弁当を手に取るときの後ろめたさや、買った服が思ったより似合わないときのモヤモヤを感じるのは、われわれが物心つくときに埋め込まれた超自我の仕業だ。頭のなかで天使と悪魔が口論する漫画によくあるイメージに対応させるなら、天使と悪魔のいずれかが超自我なのでなく、天使と悪魔が戦う平面が超自我であり、それを聞いておろおろしている本人がいる平面が自我だと言えるだろう。したがってそこにはたんなる種類の違いではない階層の違いがあり、異なる階層に引き裂かれる一個の主体であることが人間の難しさである。そして言うまでもなく、自分のしたことについて書く日記にも引き裂かれとその不器用な縫合の難しさは埋め込まれている。とりわけ哲学側からのラカン入門としては、工藤顕太『ラカンと哲学者たち』(亜紀書房)がオススメ。

滝口悠生『長い一日』講談社

ストイキッツァの『絵画の自意識』ならぬ「日記の自意識」みたいなものがあって、それは、〈したことを書くこと〉と〈書くために何かすること〉の厄介な循環としてあらわれる。この循環の極端なふたつのケースとして、日記に書くためのイベントで一日が埋め尽くされている状態と、日記をイベントで埋め尽くすために一日中日記を書いている状態を想定できるだろう。ここには具体的な営為としての日記の可能性はない。逆にいえば日記の具体的な可能性はイベントがまばらであること、つまりイベントレスネスに支えられているのだ。滝口のこの小説は、日記的なエッセイの連載がいつのまにか小説にスライドして書かれた。ここで「日記の自意識」は小説的に解決される。それは書きつつ書かれるという循環から抜け出させてくれる隙間風のような他者との出会いとして描かれるが、しかし同時に、その他者について実際は小説 = ウソなのに日記=本当であるかのように書くことによってまた別の困難が呼び寄せられる。日記も小説もそうした割り切れなさとともにある。

中森弘樹『失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論』慶應義塾大学出版会

ホーソーンに「ウェイクフィールド」という短編がある。男がある日妻と暮らす家を出て、ただなんとなくもう家に帰るのはやめようと思う。しかし出奔するわけではなく彼は家の向かいに別の部屋を借りて、取り残された妻の生活を20年間にわたって眺め続ける。日常を支える共同体や夢や必要があるときふと剥離して、私が生きている「これ」はなんなのかという問いに打たれるエアポケットみたいな場所は、生活のそこここに潜んでいる。少なくとも僕にとって日記を書くことへの衝迫には、そういうリトル・ウェイクフィールド的な何かが含まれていると思う。しかし中森の議論には、そうした離人的な衝迫をいったん認めたうえで、そこから「責任」という問題に立ちかえるところに深みが宿っている。われわれは20年ぶりに帰ってきた無責任なウェイクフィールドと、どのような関係を結びうるのか。

9.     「言っていい」ことの「よさ」について

オースティン『言語と行為』講談社学術文庫

本書の原題はHow to Do Things with Wordsで「言葉で何かをする」ことについて書かれている。われわれは言葉で、記述したり報告したり命令したり質問したり嘆いたり嘘をついたりするわけだけど、これらは「行為」としてどのようなものであり、その基本的な条件はどうなっているのか。オースティンはこの問題に取り組むためのフレームワークを苦心して編み出そうとする。本書は講義録なのだが、面白いのはこの講義は失敗の連続だということで、フレームを作ってはそこにエラーが出てきて取り替え、ということが繰り返される。オースティンは事実の記述をする「コンスタティブ」な言明(真/偽で測られる)と、命令や質問などの事実を作り出す「パフォーマティブ」な言明(適切/不適切で測られる)の区別から出発するが、そこにはいかなる明確な基準も設けることができないと言って諦めてしまう。われわれが日々目にするSNSの言った・言われたの争いも、互いの言明をコンスタティブに読んだりパフォーマティブに読んだりすることのすれ違いだという側面があるだろう。そのすれ違いの果てしなさはオースティンがぶつかったものでもあるわけだ。

定延利之(編)『発話の権利』ひつじ書房

席を立ってレジに向かい、テーブルに財布を置きっぱなしにしていることに気づくとき、僕は「財布忘れてた!」と言うだろうが、僕が気づくより早く連れの友達が気づいたら彼は僕に向かって「財布忘れてる!」と言うだろう。彼が「(君は財布を)忘れてた!」と言うとしたらそれはとても不自然な感じがするが、これはどういうことだろうか。編者の定延は言語学者として、こうした問題を「発話の権利」の問題として捉え、本書には様々な角度からこの問題に応答する論文が集められている。置き忘れられた財布の発見を示す言明という、もっぱらコンスタティブに見える発言ですら、話者の立ち位置というパフォーマティブな次元と切り離せない。だとすればむしろ、なぜわれわれはふたつを切り離せる・切り離すべきだと思ってしまうのだろうか。それ自体がなにか特定の「権利」を保持することと切り離せないとしたら?