日記の続き#159

横浜に帰ってきた。ビジネスホテルで起きてホテルのカフェで寒々しい朝ご飯を食べて、喫茶店で日記を書いて新幹線に乗った。先日のトークイベントで、福元さんが福岡道雄の作品を日記的な美術の例として挙げていた。その日出会った風景の彫刻から、平面にひたすら「何もすることがない」と書き付ける作品へ、そして「つくらない彫刻家」になるという福岡の歩みを聞いて、マテリアルへの信頼を失っていくプロセスに見えて辛いと言った。何もすることがないというのはデフォルトなのでそれを言っちゃあおしまいよということだし、何かを継続するというのはそれを言っちゃあおしまいよ的なものへの抵抗であるべきだと僕は思う。あと意地悪な言い方をすれば、つくらなくてもそれが「美術」だと思ってもらえるという打算があってのことだろうし、そうした打算が寄りかかれる場所としての美術への反省はなくていいのかとも思った。ともかく毎日何かを継続しつつ、しかもそれ自体がたんなるパフォーマンスに落ち込まないようにするには、それが自分を思いもよらないところに連れて行ってくれるはずだというマテリアルへの信頼が必要だし、続けることが楽しいと思えるのもそうした信頼があってのことだと思う。