日記の続き#162

うっすら昨日の続き。10年ほど煙草を吸ってきて、そのあいだに喫煙者をめぐる状況も変わってきた。値段も1箱100円くらい高くなったし、吸っていい場所もどんどん減っている。幸い近所には珈琲館をはじめ喫煙可の喫茶店がたくさんあって不便を感じることはないが、それだけに出かけるときに煙草が吸えるのか気にしなければならないことが億劫で出不精に拍車がかかっているところもあると思う。こないだ夜に今日は外で食べようと言って、近所のデニーズに行った。『眼がスクリーンになるとき』を書いていたときは毎晩のように行っていた店で、でも喫煙席もなくなって24時間営業でもなくなってぜんぜん行かなくなっていた(これは僕は死ぬまで繰り返し言うが、ファミレスの禁煙化と営業時間の短縮はコロナ禍の前から起こっていたことだ)。それで久しぶりにそのデニーズに行って、かつて喫煙席だった席に彼女と座って(当時は付き合ったばかりで僕が夜中2時くらいに突然デニーズに行くと言い出してびっくりしていた)、なんだか懐かしくて、ここに来れなくなっているということが寂しかった。ここからが今回の本題なのだが、もちろん一方で禁煙化の流れに腹が立つということがある。しかし他方で、腹を立ててもそれによって僕の生活の輪郭が規定されていることは動かないじゃないか、もう一歩踏み込んで言えば僕はそれにどこかで寄りかかっているのではないかとも思う。しかし煙草は好きだし禁煙はしたくない。やりたくないことはやりたくない。それで、昨夜ふと思いついたのだが、ニコレットとかガム状の禁煙補助剤を煙草と併用するのはどうだろうかと思った。問題はそれが安くはないことくらいで、それが鞄に入っているだけで、店に行く前にそこで煙草が吸えるかビクビクしなくていいし、図書館で長時間の調べ物をしない理由もなくなるし、試してみてもいいかもしれない。これは服従だろうか、禁煙補助薬をニコチンのブーストに使う抵抗行為だろうか。どっちだって知ったこっちゃないという平面もあっていいと思う。