日記の続き#163

夜、散歩しながらツイッターのスペースで大和田俊と喋った。ステレオはヤバいという話とか、日付は怖いという話とか。彼は9月11日を、今日は9月11日で、ナインイレブンから20年だと思いながら過ごし、同時に、9月11日に入っていた予定を忘れていたわけでもないのにすっぽかしてしまったらしい。その9月11日とこの9月11日の乖離。これは日記を書いているととてもよくわかる話だ。僕はそれをとりあえず「日々と生活のあいだ」と呼んでいるのだけど、そこには不気味な川が流れている。毎日、毎週、毎月、毎年という循環的な時間に寄りかかって日々と生活のあいだに橋をかけることはできる。でもそれはあくまで橋であって、川はつねにその下で橋桁を舐めている。日記を書いているとだけ言うと、毎日の生活の些細なことを愛で、「丁寧な暮らし」と呼ばれるような日々と生活の調和を描いているのだと思われるかもしれないけどそれはまったく反対で、日付を書き間違えたり、1日書き飛ばしたり、何も思い出せなかったり、別の日に飛ばされたりで、どちらの岸にも辿り着けずに翻弄されているというのが実情だ。でもそれが時間というものの姿ではないか。

帰ってベランダで、柵に肘をついて煙草を吸っていると、一瞬指がゆるんで煙草が傾いて外に落としてしまいそうになる。咄嗟に持ちなおす一瞬のうちに、煙草ではなく自分が頭から、ちょうど干した布団がずるっと外側に滑り落ちるように、落ちるような感覚が背筋に走った。ぼおっと見ているうちに煙草の先端が頭になっていたのだろう。(2021年9月28日