日記の続き#165

3日ほどかけてメイヤスーの『有限性の後で』を読み返していた。偶然的なものだけが必然的であるというテーゼや、祖先以前的言明——要するに経験科学の言明一般。僕としてはこれがことさら「言明」であらねばならない理由が気になるのだが、それはともかく——の絶対性のテーゼより、特定の宗教への帰依と区別される「信仰主義」という概念を作ったことがいちばん偉いのではないかと思った。とりわけハイデガー、ウィトゲンシュタイン以降の「強い相関主義」における、絶対的なものへのアクセス不可能性を人文的な思考の条件とする態度は、絶対的なものを理性の管轄外に置くためにかえって宗教を真面目に考える回路を手放してしまうという議論だ。これはたとえば、いつかの日記に書いたことだが——サイト内検索ですぐ出てくるだろう——ロザリンド・クラウスの指標論で「写真的なもの」が担う因果的連関の奇妙に神秘的な性格を批判的に検討するうえでも役立つ話だと思う。というのも、相関主義−信仰主義が理由律を思考不可能なものとして温存する手つきと、写真的なものによってたまたまそこにあるものとの因果的連関を芸術実践の口実にし、芸術を宗教化する手つきは同形だろうからだ(これはサイト・スペシフィシティ、さらにはその商業的−行政的領域への拡張としての地方芸術祭まで一本の線で繋がっている)。