日記の続き#172

「情報の非対称性」という言葉があるが、対称なものは情報にならないのでこの言葉自体がトートロジーである。私とあなたがもっている情報が同じであるということすら、その同じであるということが有意味であるような第三者的な視点なり状況なりが仮説的にであれ可能でなければそれを情報と呼びようがない。すると反対に、情報の非対称性という言葉があたかも特殊な、あるいは正したり利用したりするべき偶発的な状況を指すものとして用いられ、流通するのはなぜなのかということが気になってくる。おそらくこの言葉が頻繁に使われるのは金融取引や人狼のようなゲームの世界で、このような世界には、情報の非対称性をそのようなトートロジカルな名で呼ぶことで得られるなんらかのメリットがあるのだろう。対称な情報というありもしないものをあたかも中立的なものとして扱うことに。「情報」という言葉は、「対称/非対称」を奇妙なしかたでブリッジする回路として機能している。一方を理想化・中立化しつつ、自身にとっての存立条件であるはずの他方を特殊化する回路として。つまりあらゆる「情報」はある種のカバーストーリーであるわけだが、それによって覆いをかけられているのは何なのか。これは可能な回答のひとつだろうが、実際にあるのは対称/非対称の非対称性ではなくある非対称性と別の非対称性の非対称性であるということだと思う。ここまで書いてこれはドゥルーズ『差異と反復』のシミュラークル論だと気づいた。ところで「平等」とは何か。