日記の続き#166

日記についての理論的考察§16

こないだの美術館でのトークのアーカイブを送ってもらって見返していた。そのなかで日々の出来事と日記のあいだには、ふつうに考えれば「その日あったことを書く」という意味で時間的な前後関係とともに出来事の平面と日記の平面の階層関係があるが、実際はいずれの意味でもそんなにすっきりいかないという話をした。以下はその補足。日記が「その日あったことを書く」ものであるなら、理想的な日記は25時間目に書かれるはずだ。つまり日記という形式には実際はその日のうちにありながらあたかもその日の外から書いているかのように書くことを要求するという、お決まりのクラインの壺的な循環がある。ここから抜け出すための実際的な手口としてまず、夜更かしをするということがあるのだが、当然これは生活時間がズレ込んでいくことを代償として引き起こす(今日も起きたら午後2時だった)。しかし他方で書いていると勝手にその循環から抜け出ることもあって、それは「その日あったこと」の外に出たり、なんもなかったなと思いながら書いているうちに言葉に引っ張られて「その日」から新しいものを引き出せたりすることとしてある。

日記の続き#165

3日ほどかけてメイヤスーの『有限性の後で』を読み返していた。偶然的なものだけが必然的であるというテーゼや、祖先以前的言明——要するに経験科学の言明一般。僕としてはこれがことさら「言明」であらねばならない理由が気になるのだが、それはともかく——の絶対性のテーゼより、特定の宗教への帰依と区別される「信仰主義」という概念を作ったことがいちばん偉いのではないかと思った。とりわけハイデガー、ウィトゲンシュタイン以降の「強い相関主義」における、絶対的なものへのアクセス不可能性を人文的な思考の条件とする態度は、絶対的なものを理性の管轄外に置くためにかえって宗教を真面目に考える回路を手放してしまうという議論だ。これはたとえば、いつかの日記に書いたことだが——サイト内検索ですぐ出てくるだろう——ロザリンド・クラウスの指標論で「写真的なもの」が担う因果的連関の奇妙に神秘的な性格を批判的に検討するうえでも役立つ話だと思う。というのも、相関主義−信仰主義が理由律を思考不可能なものとして温存する手つきと、写真的なものによってたまたまそこにあるものとの因果的連関を芸術実践の口実にし、芸術を宗教化する手つきは同形だろうからだ(これはサイト・スペシフィシティ、さらにはその商業的−行政的領域への拡張としての地方芸術祭まで一本の線で繋がっている)。

日記の続き#164

時間帯はズレても毎日書いているのだがどうしてか内容が「今日」からどんどん遅れていく。昨日とおとついに分けて書いてみよう。

9月17日
この日は朝起きて、コメダ珈琲で朝ご飯を食べた。しばらく仕事をして有隣堂に行って、妻とそれぞれ1冊気になるレシピ本を買うという遊びをした。僕はウー・ウェンの炒め物がまとまった本にして、彼女は作り置きできるフランス料理の本を買っていた。帰って昼寝をして、レシピの写真を撮ってスーパーに食材を買いに行った。No rain, no rainbow. と書かれたTシャツを着ている人を見て、どう思えばいいんだろうと思っていると『トイ・ストーリー』のウッディとバズのぬいぐるみを車体にくくりつけて、ウッディがバズを引っ張り上げている場面を再現している軽自動車が脇をすり抜けていった。ざっくり切ったトマトと玉子の炒め物と、イカとブロッコリーのオイスターソース炒めを作って食べた。美味しかった。

9月18日
夜更かししたからか起きたらもう昼で、ささけんさんが参加しているグループ展が今日で終わってしまうので六本木に見に行った。馬車道駅から東横線に乗って、中目黒で降りてホームの反対側に入ってくる日比谷線に乗る。展示は駅から出てすぐのところにある、いくつも現代美術系のギャラリーが集まっているビルでやっている。どこも禁煙なので路地で煙草を吸おうと思うとライターを忘れていて、ファミマに入るとそこに喫煙ブースがあった。ビルの1階のギャラリーは知らない海外の作家のよく売れそうな絵を展示していた。石膏像や古い本を置いたティピカルな構図のなかにナイキのスニーカーが置かれた静物画でげんなりした。3階でめあてのグループ展を見て、田村友一郎の個展も見た。田村のインスタレーションはふたつ見たことがあって、今回のものを含めどれも特定の歴史的なモチーフから言葉遊び的な連想に基づくリサーチをして、しかしそれをただ言葉として持ってくるのではなくブツとして並べるというかたちなのだが、手法に作家性を見込まれるのは辛そうだなと思った。ささけんさんの絵は五味家で見て以来初めて見て、あそこから引き剥がされた「絵画」として見るのは不思議な感じがするなと思った。剥がすほどにタッチの迫真性が増す。中庭に向いたテラスに喫煙所があって、煙草を吸って横浜にとんぼ返りした。

日記の続き#163

夜、散歩しながらツイッターのスペースで大和田俊と喋った。ステレオはヤバいという話とか、日付は怖いという話とか。彼は9月11日を、今日は9月11日で、ナインイレブンから20年だと思いながら過ごし、同時に、9月11日に入っていた予定を忘れていたわけでもないのにすっぽかしてしまったらしい。その9月11日とこの9月11日の乖離。これは日記を書いているととてもよくわかる話だ。僕はそれをとりあえず「日々と生活のあいだ」と呼んでいるのだけど、そこには不気味な川が流れている。毎日、毎週、毎月、毎年という循環的な時間に寄りかかって日々と生活のあいだに橋をかけることはできる。でもそれはあくまで橋であって、川はつねにその下で橋桁を舐めている。日記を書いているとだけ言うと、毎日の生活の些細なことを愛で、「丁寧な暮らし」と呼ばれるような日々と生活の調和を描いているのだと思われるかもしれないけどそれはまったく反対で、日付を書き間違えたり、1日書き飛ばしたり、何も思い出せなかったり、別の日に飛ばされたりで、どちらの岸にも辿り着けずに翻弄されているというのが実情だ。でもそれが時間というものの姿ではないか。

帰ってベランダで、柵に肘をついて煙草を吸っていると、一瞬指がゆるんで煙草が傾いて外に落としてしまいそうになる。咄嗟に持ちなおす一瞬のうちに、煙草ではなく自分が頭から、ちょうど干した布団がずるっと外側に滑り落ちるように、落ちるような感覚が背筋に走った。ぼおっと見ているうちに煙草の先端が頭になっていたのだろう。(2021年9月28日

日記の続き#162

うっすら昨日の続き。10年ほど煙草を吸ってきて、そのあいだに喫煙者をめぐる状況も変わってきた。値段も1箱100円くらい高くなったし、吸っていい場所もどんどん減っている。幸い近所には珈琲館をはじめ喫煙可の喫茶店がたくさんあって不便を感じることはないが、それだけに出かけるときに煙草が吸えるのか気にしなければならないことが億劫で出不精に拍車がかかっているところもあると思う。こないだ夜に今日は外で食べようと言って、近所のデニーズに行った。『眼がスクリーンになるとき』を書いていたときは毎晩のように行っていた店で、でも喫煙席もなくなって24時間営業でもなくなってぜんぜん行かなくなっていた(これは僕は死ぬまで繰り返し言うが、ファミレスの禁煙化と営業時間の短縮はコロナ禍の前から起こっていたことだ)。それで久しぶりにそのデニーズに行って、かつて喫煙席だった席に彼女と座って(当時は付き合ったばかりで僕が夜中2時くらいに突然デニーズに行くと言い出してびっくりしていた)、なんだか懐かしくて、ここに来れなくなっているということが寂しかった。ここからが今回の本題なのだが、もちろん一方で禁煙化の流れに腹が立つということがある。しかし他方で、腹を立ててもそれによって僕の生活の輪郭が規定されていることは動かないじゃないか、もう一歩踏み込んで言えば僕はそれにどこかで寄りかかっているのではないかとも思う。しかし煙草は好きだし禁煙はしたくない。やりたくないことはやりたくない。それで、昨夜ふと思いついたのだが、ニコレットとかガム状の禁煙補助剤を煙草と併用するのはどうだろうかと思った。問題はそれが安くはないことくらいで、それが鞄に入っているだけで、店に行く前にそこで煙草が吸えるかビクビクしなくていいし、図書館で長時間の調べ物をしない理由もなくなるし、試してみてもいいかもしれない。これは服従だろうか、禁煙補助薬をニコチンのブーストに使う抵抗行為だろうか。どっちだって知ったこっちゃないという平面もあっていいと思う。

日記の続き#161

ちょっと内在しに……という感じの、筋トレ、ソロキャンプ、サウナといった流行の次に来るのは「息止め」なんじゃないかとふと思った。これらプチ内在系の活動はデジタルデトックスや自律神経の緊張−弛緩に共通して狙いを定めているが、煎じ詰めればそれは身体の輪郭のうちに思いなしを押し込めるということだろうし、そうであるなら息を止めるのがいちばん手っ取り早いはずだ。実際これは寝付きの悪いときなどに効果がある。ゆっくりと限界まで息を吸いながら、胸郭を内側から上下前後左右に押し広げるようなイメージをしつつ、吸いきったらその胸の圧をなるべく保ったまま息を下腹部まで移動させ、その状態でしばらく息を止めてゆっくりと吐く。何度か繰り返すと内臓がため息をついたようにくたっとして落ち着く。問題があるとしたら写真に映えないことだ。それにしてもこのプチ内在系の流行はマインドフルネスとの親近性からもわかるようにスピリチュアル的な側面もあるはずで、オウムが最初たんなるヨガ教室だったことなどにも思い当たるが、ちょっとした内在の方便として機能する超越があるのかもしれない。

日記の続き#160

投稿せずに寝て、起きたらwordpressにログインできなくなっていて格闘していたらもう昼の3時前。原因がぜんぜんわからず大変だったし、どうして直ったのかも結局よくわからない。おそらくGoogle Site KitとかいうGoogleにサイトの情報を共有して、SEOやら閲覧情報やらを管理できるプラグインを再設定しろというリマインドが出ていて、それを素直にやったらどこかで何かがおかしくなったのだ。それでFTPとかSQLとか謎の語彙に囲まれながらログインURLをリセットしたり、サーバーのファイルマネージャー上のファイルを検索して見つけた指示に沿って書き換えたりしているうちに直った。もう金輪際Google Site Kitは触らないようにしよう。1年半経ったいまもなんだかよくわからないままやっているので、パソコンを触り始めたときみたいになんだかわからないがとにかくここに触ったらいけないというゾーンがそこここにある。なんだかよくわからないが特別な理由がないと行ってはいけない場所がある村みたいだ。他方で、昨日はサイトのフッターにランダムにいつかの日記に飛べるボタンを設置して、これが楽しくてぽちぽち押していた。自分でできるということとインターフェイスに底がないということは裏表になっているのだろう。しかし本当に焦った。こんな理由で日記が終わるのはあまりに無慈悲だ。

日記の続き#159

横浜に帰ってきた。ビジネスホテルで起きてホテルのカフェで寒々しい朝ご飯を食べて、喫茶店で日記を書いて新幹線に乗った。先日のトークイベントで、福元さんが福岡道雄の作品を日記的な美術の例として挙げていた。その日出会った風景の彫刻から、平面にひたすら「何もすることがない」と書き付ける作品へ、そして「つくらない彫刻家」になるという福岡の歩みを聞いて、マテリアルへの信頼を失っていくプロセスに見えて辛いと言った。何もすることがないというのはデフォルトなのでそれを言っちゃあおしまいよということだし、何かを継続するというのはそれを言っちゃあおしまいよ的なものへの抵抗であるべきだと僕は思う。あと意地悪な言い方をすれば、つくらなくてもそれが「美術」だと思ってもらえるという打算があってのことだろうし、そうした打算が寄りかかれる場所としての美術への反省はなくていいのかとも思った。ともかく毎日何かを継続しつつ、しかもそれ自体がたんなるパフォーマンスに落ち込まないようにするには、それが自分を思いもよらないところに連れて行ってくれるはずだというマテリアルへの信頼が必要だし、続けることが楽しいと思えるのもそうした信頼があってのことだと思う。

日記の続き#158

大阪。国立国際美術館でトーク。楽屋として用意してくれた応接室には10脚ほどのソファが並んでいて、背中にリュックを置いてその前に座ったあとで、リュックを隣のソファに置いた。対談相手の福元さんが機材の確認に出ると部屋が静かになった。地下で、ネットもつながっていない。館長が入ってきて名刺を渡して出て行った。入ってきたときより出ていくときのほうが小さかった。そういう部屋なのだ。本番ではアンミカみたいに日々が充実していればあったことを書けばそれで済むかもしれないが、幸か不幸かそんな人間はごく少数なはずで、僕のような平凡な人間が毎日日記を書こうとするとあったことを書くだけでは済まないのだ、そしてその——イベントレスネスに対応した——それだけでは済まなさが、日々の出来事の平面と書かれる日記の平面のあいだにもつれをもたらすのだという話をしたりした。それにしても日記を書いていたら美術館に呼ばれて日記について喋るというのは何なのか。聞きに来てくれた多賀宮さんとご飯を食べに行って、バーに行ったり(ノンアルコールドリンクがたくさんあるお店にしてくれた)、深夜に開いている喫茶店に行ったりしてたくさん喋った。喫茶店に文芸同人誌が置いてあって、統合失調症の人の日記が載っていた。

日記の続き#157

日記を3年やってそれを全部まとめた本の妄想を布団のなかでしていて「思想界の日常系シェヘラザード」というキャッチフレーズを思いついた。しかし厄介なのは語り部も僕なら、それがつまらなければ殺してやるぞと思っている不眠症の王も僕であることだ。これも「日記についての理論的考察」に書いてきたような循環のひとつの現れで、癒やしと強迫の絶えざるバックの取り合いとして日記はある。そこからさらに、かつて書いた日記をもとにそれを書いている自分を想像して書くという、裏返しの日記の企画を思いついた。昔の日記を読んでいて不気味なのは、当時は自然な並びとして書いたはずの文のそこここに復元できない亀裂が走っていることだ。それをまた別のしかたで、あからさまな嘘も含めて埋めていくこと。これはジャンルとしては小説ということになるだろうが、同時に輪をかけて自閉的な行いでもある。僕はどうしてか自分を自分の外に切り離した状態に置いておくことについて奇妙な執着があると思う。