日記の続き#178

レクチャーの準備が朝までかかって、2時間だけ寝て神保町に向かった。できあがってみたらほとんど引用だけで埋めているレジュメがA4用紙9枚分あって、これを1枚10分で消化するのかと思った。会場は美学校の入っているビルに新しくできたPARAというスペースで、階段しかない古いビルの踊り場に喫煙所があって、開いた窓から外を見ながら煙草を吸った。数年ぶりにお客さんがぎっしり入った会場で話をした。内容はインスタレーションアートを巡る理論的な言説からいま「作品」がどのような状況に置かれているか検討したうえで、そこから抜け出すような別のクライテリアを探るというものだった。インスタレーション以前のインスタレーション論としてハイデガーとベンヤミンを取り上げたうえで、それぞれを引き継ぐ現代の論者としてハーマンとクラウスを並べる。表面的にはハイデガー−ハーマンがフォーマリスティックに「作品」の自律性を称揚する保守派で、ベンヤミン−クラウスが「制作」プロセスの社会への埋め込みを主張するリベラルに見える。しかしこの対立は根本的なものではなく、クラウスにおいてハイデガー的なものとベンヤミン的なものが奇妙なかたちで「止揚」されていて、その核にあるのが「指標の透明性」だという話をする。これが指標−キャプション−パフォーマンスからなるインスタレーション的な体制を支えていて、ここにかかっている無理が現行のいろんな問題の根っこにあるのではないかという話をしたうえで、インスタレーション的な実践のなかからそうした体制から抜け出そうとしている作家として大和田俊と佐々木健の話をして終わった。