日記の続き#188

どうにも頭がしゃきっとしないので、ソファから少しずつ日が暮れるのを見ながら本を読んだ。

昨日難しい本は引用するつもりで読むといいと書いたが、これは文章を素材として見るということだと思う。写真家が街の景色を素材として見るように。何らかの表現に習熟するということは、経験——という語はできるなら避けたいが——を素材として何かを作ることができるということで、それは表現することであると同時にそうした素材に表現を見いだすことでもある(いぬのせなか座の山本さんがよく表現を見いだすという言い方をしていて、前から気になっていた)。哲学の文章の読み書きで言えば、難しいものが読めるようになるのはこの表現することと表現を見つけることの回路が構築されるということだと思う。昔ながらの講読レジュメがこの回路を作るのにいちばん手っ取り早いと思う。ところで、ドゥルーズは『千のプラトー』の動物−芸術論で表現という観念と所有という観念を結びつけていた。表現とは所有であり、所有とは表現である。表現とは何かに表現を帰属させることであり、表現することで初めて所有できる。知識ではなく素材を。所有=簒奪ではなく所有=贈与を。