日記の続き#210

日記についての理論的考察§18
しばらく前から「他人の日記」という企画を考えていた。誰かに話を聞いてその人の日記を僕がここで書くという企画。きっかけはたんにもはや他人の日記を書いたほうが楽なのではないかと思ったということだ。裏を返せばどうして1年半ものあいだ自分のこと——それはいわゆる「自分語り」に収まるものでないにしても——ばかり書いているのかわからなくなったということでもあり、「出来事」として見れば僕のものも他人のものもないだろうということでもある。日記にとって「他人」とは何なのかということについては、僕が日記に書く他人や、あるいは日記掲示板に書いてくれる誰とも知らない他人との付き合い(?)のなかで折に触れて不思議に思ってきた。何か別の関わり方の回路がありそうだと。

やるならツイッターのスペース機能で、来てくれた人にその日のことについてインタビューして、それをもとに書くというやりかたがいいかなと思っていた。密室で秘密を託されても困るので——日記と秘密の関係については別の機会に考えよう——第三者が聞いている場所でやるほうがいいだろう。しかし昨夜、何時からスペースを開きますと言った直後にやっぱり他人の日記は書けないなと思ってスペースではどうして他人の日記が書けないのかということについて結局ひとりで1時間も喋った。これはなんだろう。どうしていつも自分の側に舞い戻ってくるのか。どうして出来事は私のものではないのに、それを書くとき私はひとりになるのか。