日記の続き#214

ダーウィンのミミズ研究の本が届いた日に「クレイジージャーニー」で土壌学者の藤井一至が出演していたり、ベイズ推定の歴史の本を読んでいると博論本の原稿でちょうど出くわしたマルコフ連鎖の話が出てきたり、こないだのレクチャーで表現と作品の関係の話をしたら今度書評パネルに登壇するレヴィナス本にその話——レヴィナスはふたつを対立概念として扱うのだが——が出てきたり、日々そういう静電気みたいなものがパチパチと、頭のなかで起こっている。これは一方でそこから何かが広がっていくアイデアの可能性であり、いろんな本を読む楽しさのひとつはそこにあるのだが、他方でそれはまたパラノイアックというか、数字がゾロ目の時計をよく見るというような偶然とバイアスの取り違えでもある。偶然とバイアスを取り違える幸福な愚かさがなければアイデアはないのだが、それがあくまで幸福なものであるためには、妄想的な楽しみと静電気的な行き場のない楽しみを併走させることが必要だ。それがテクニックなのか、人間とはそもそもそのようなものだという達観なのかはわからないけど。