日記の続き#227

西川祐子『日記をつづるということ:国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館、2009年)を読み終わったのでいくつかメモを書いておく。

アンネ・フランクはラジオで終戦が近いことを知り、日記の清書を始めたらしい。

矢玉四郎『はれときどきぶた』という絵本は、母に日記を盗み読みされた子供が明日の日記としてでたらめなことを書くとそれが実現するという話らしい。

「ひとりになって考えることではなく、複数の中で一人で考えることが必要なのだ。タバコが飲みたい」(高野悦子からの孫引き)。「スモーキング・エリア」っぽい。

戦前の旧制高校では学校同士で機関誌を寄贈しあっていたらしい。当然書くのも読むのも男ばかりになる。そのなかで日記(からの抄録)は「内面」を共有するメディアとして重宝する。寮内でなかば公然となされる盗み読みによるホモソーシャルな連帯。読むことと盗むこと。

「日記が国民教育装置からもっとも大きく逸脱するのは、日記が持続されることによってなのである」。日記とイエ制度、日記と戦争、日記とフェミニズム、日記と家計簿、日記と住宅などの観点から20世紀日本における様々な主体化のモードを分析する著者が、最後に「〜としての」日記をはみ出す生の持続に賭けていること。