日記の続き#241

こないだ黒嵜さんと話していて彼の知り合いの仏教研究者が瞑想の最先端はインドでも日本でもなくミャンマーにあると言っていたと聞く。それでミャンマー取材と座談会をくっつけて仏教、マインドフルネス、ADHDと情報環境の関係、あるいは他のプチ内在系の実践との違いなどについて話せたら面白そうという話になった。実際できるかはわからないが彼と話すといつも企画の話になるので楽しい。それで、ちょうど家でひとりだったので瞑想をやってみることにした。iPhoneのタイマーを30分にセットして、クッションを二つ折りにして高めの座布団としてお尻の下に敷いて、脚を組んで壁の前に座ってまぶたの力を抜く。心が鎮まるというより、体の中のざわざわと体の外のざわざわがざわざわとして一元化されていくような感覚がある。工事の音、冷蔵庫の音、商店街の放送、ときおり顔が浮かび上がる壁の肌理、胃が少し張っている感じ、手が温かくなっていく、雑多な思いなし。途中2回長いなと思ったがそれすらひとつとして過ぎていってタイマーが鳴った。「座りの悪さ」を全感覚に、あるいは野外に拡張したような30分だった。猿が檻の壁を跳ね回っているような。今調べたら「据わり」のほうがメジャーな表記らしい。いずれにせよ座り・据わりの悪さの脱構築として、あるいは檻を壊すのではなくどこまでも広げるようなものとして感じられた。