日記の続き#248

日記について調べていて正岡子規が『ホトトギス』で読者からの日記の投稿を募っていたことなどを知って、歴史というのは大事だなあ、ひととおり原書を見てみなければと思ったのだけど、そんなことを思ったのは初めてかもしれない。阪大に入ったとき、当初は比較文学専修に入ってラテンアメリカかロシアの小説を読みたいと思っていたのだが、各専修の紹介のオムニバス授業で比較文学の教授が漱石や芥川の掲載誌や初版本の研究をしていると話していてそんなジジイの趣味みたいな研究の何が面白いのか、小説なら文庫で読めるじゃないかと興ざめして入るのをやめた(もうひとりの教授はたしか近世のイギリスの黄禍論の研究者で、これもつまらなそうだと思った)。かといって作品だけから何か言えるし言うべきだというテクスト主義を大2病として打ち遣る気にもなれない。日記についての本を書くことになったらこのふたつをどうブリッジするかということが問題になるだろう。

もうひとつ昔話。ふと思い出して『眼がスクリーンになるとき』が刊行されたときの合評会のレポート記事を読み返した。千葉雅也さんが小倉拓也さんの『カオスに抗する闘い』に、堀千晶さんが僕の本にコメントして応答する会だ。レポートによると堀さんが『眼がスクリーンになるとき』には政治性も歴史性も欠如していると指摘して(いろんなひとから言われたことだ)、僕は「政治的なこと」について書けば政治的な文章になるわけではなく、リテラリティという概念に結晶する、『シネマ』と映画の、あるいはベルクソンのテクストとの関係から取り出される「見る」こと、「読む」ことの意味の変容それ自体が政治的な射程をもっているのだと答えたようだ。26歳のときだ。よくやっていると思う。