日記の続き#263

博論本がいまメインでやっている仕事だが、論集本のことも、共訳本のことも、共著のことも、来年始まりそうな連載のことも、連続レクチャーや非常勤講師、そのほかいくつかの自前で、あるいは友達とやりたい企画のこともあって、「今日」するべきことは別にないと言えばないのだが、向こう数年でやることになりそうなことはたくさんあって、それらがひとつの銀河のようにつねに頭のなかで回転している。

それで、昨夜布団に入ってからまたいろいろ妄想が膨らんでなかなか眠れなかった。そのひとつをメモしておく。文芸誌で論考の連載を書くのはなかなか難しい仕事だろう。ひとつは単著スケールの長さの論考を、等間隔で1ブロックずつ書き進めるというのは土台無理な話だ。理論的な話は語彙の統一からプロットの一貫性まであらゆるレベルで、ふつう行きつ戻りつフィードバックしながら書くもので、書き進めるということはイコール「良い改稿」の方針を探る作業でもあるからだ。そして他方で、月刊誌で連載される論考を読んでもらうのもなかなか難しい話だ。そもそも僕自身も連載論考を追って読んだ経験がないし、続けて読まれているというフィクション(?)を自分のなかで維持するのも難しいだろう。

それぞれに対する対策として、書き方は構築的な論考というより理論的挿話も社会評論も個人的な体験も作品評も混ぜこぜにした、あらゆるものに寄りかかって書いた小さいブロックを並べる書き方にする(ブロック間を切り取り線のような破線で区切る)。日記を書いてきてそういう形式に耐えうる文体ができていると思う。そして読んでもらうためには、連載開始前にTwitterのアンケートで「月刊誌の連載論考を追い切ったことがある/ない」を問い、大方「ない」が多数になるだろうから、僕もそうなのだが、だからこそ僕のはほかと違うものになると言う。だいたい書きたいものと宣伝の仕方は同時に思いつく。