日記の続き#264

論集本のタイトルは『クリティカル・エッセイズ』にしようと考えている。「ポシブル、パサブル」、「スモーキング・エリア」の#1-5と、いくつかの展示の批評が軸になるだろう。問題は副題なのだが、「〈ひとごと〉の肯定」という言葉が思い浮かんだ。僕の書いてきたもの、僕の考えていることはずっとこの問題を扱っていると思う。それはたんに親密なコミットメントをせせら笑うことではなく、ふたりきりでもすれ違うということをポジティブに捉えることだ(いつだったかこの日記にも、親密さとは同じ記憶の共有ではなく互いの記憶のすれ違いの蓄積なのだと書いた)。『眼がスクリーンになるとき』ではそれをリテラリティと呼んだ。博論ではそれを非美学あるいは剥がれと呼んだ。「ポシブル、パサブル」ではそれをデコイと呼んだ。ふたりの出会いを必然化してくれるような「セカイ」は存在しないが、人間にはそれがなくったってやっていけるタフネスがある。そういえば「シャカイ系」ってあるのだろうか。カフカはシャカイ系だろうか。