日記の続き#300

ここ数日頭のなかでずっとぐるぐるぐるぐる博論本の文章をいじっていて、他のことに集中することができなかった。そういうときは妻に話しかけられても、その言葉は聞こえているのだが、意味を理解するのに時間がかかる、というか、意味もわかるのだがそれに自分を関連付けるのに時間がかかる。日記もおざなりになっている。まあ4章はもういいだろう。あそこもあそこも直さなきゃいけないという気持ちと、自分はこれを書けたんだと悦に入っていたい気持ちと、5章もまたキツいぞという気持ちにいつまでも引っ張られてしまう。これまでのところ『非美学——ドゥルーズの哲学と批評』という仮題で進めてきたのだがどうにもしっくり来ていなくて、『眼を逸らさなければ書けない——ドゥルーズの非美学』のほうがいいかもしれないと思った。能力論の問題も、言語実践としての哲学の問題も、非−接地としての芸術学の問題もこれだと串刺しにできる。『眼がスクリーンになるとき』から「眼」が繋がっているし、この本が出た直後に『新潮』に書いた「見て、書くことの読点について」というエッセイとも繋がっている(これは昔作ったはてなブログのサイトに再掲している)。気になるのは千葉さんの『動きすぎてはいけない』に似ている(そのわりに本書のように引用ではない)ことで、『動きす』も重要な参照先だからいいのかなとも思うが、勝手に引き継ぐ感じになっても悪い(というか、過剰に「陣営」として見るひとが出てきそうで面倒)かなとも思う。ともかくたいてい企画でもタイトルでも文章のテーマでも、何かを決めるときはだいたい5個くらいの理由が揃ったときだ。日記が続いているのは始める理由が10個くらいあったからだと思う。そのつど捨てたり拾ったりしているが。