日記の続き#317

布団で横になって日記について考えていると千日回峰行がなんぼのもんじゃいという気持ちになってきた。つまり、彼らは衣食住が保証されていて、社会的地位に対する不安も、長短いくつも抱えた原稿のことを考える必要もなく、それだけをやっていればそのことに対するあらかじめ決められた報酬が与えられる。それに対して日記を続けることは生活上のあらゆる——国民年金の徴収を代行するバックスグループからの電話を含めた——雑事とともにあり、雑念はむしろ増え、行の達成者の今際の際のインタビューを読むと寺のなかですることだけが修行なのではなく生きていることが修行なのだと言っていたが生きていることが修行だったらどれほどいいか、生の非修行性という悲惨は仏が救ってくれるのかと思った。日記を書く行者がいたらどうか。それならいいと思う。やっているあいだは黙っていて、やってしまえば言葉に他の誰にもない価値が宿るなんてズルい。