日記の続き#318

めずらしく僕が午前に起きていて、外も暖かいので妻に散歩に誘われて、年末のRAU展でもらった本牧台地のフィールドツアーのコースを歩くことにする。横浜橋商店街を南に抜けて、前住んでいたアパートがある市大病院のところから中村川を渡ると台地が崖として立ちはだかる。西側の緩やかな坂に回ってそこを上ると、英語が書かれたゲートがあって面食らった。米軍が接収した土地だ。住んでいる街を見下ろしながら台地を海のほうへ向けて——つまりいつも関内のルノアールまで歩く道と並行して、しかしそれより南にズレて50メートルほど高いところを——歩いていると、ベージュ色の車体の山手ライナーという普段見ない路線バスが同じ道を通っていた。一軒家、小さくて古いアパート、小さくてものすごく古くて廃墟になったアパートが並び、丘を見下ろすようにかつて瀟洒だった古い大きいマンションがあるが、コンビニもスーパーも飲食店もない。自販機には必ずドクターペッパーがあって、やはり半分アメリカなのかなと思った。南側には広い墓地が広がっていて、その向こうにいつかこの日記にも書いた、ホーンテッドマンションのような根岸競馬場のスタンド跡が見える。2年前を2年分隔てて見ているようだ。直線距離で言えばうちから関内まで歩くのと根岸まで歩くのはそう変わらないのだということに思い当たる。もうところどころ梅が咲いていて、コートを着ているのが暑いくらいだった。台地から降りると寿町と石川町のあいだのところに出て、そこまで東に寄っていると思っていなかったので奇妙な感じがした。イセザキモールに入るとやっと落ち着いて、マックでコーラを飲みながら台地の歴史を調べた。米軍の土地は「根岸住宅地区」と呼ばれていて、最初に見たゲートから競馬場跡のほうまで2キロほども続く区域で、2015年に居住者が引き払っており、返還の方針も定まったところで宙づりになっているようだ。市のホームページには跡地利用として市大のキャンパスを作って交通の便をよくするとあるが、この台地では1999年に地震も降雨もなかったのに出し抜けに崩落が起こったこともあるらしい。キャンパスができれば同じく丘の上に取り残された横国のキャンパスと北と南に分かれた双子のような関係になる。台地は12万年前の海進とその後の下降によってできた平地が川で削られてできたようだ。僕が普段行き来している大岡川流域はその削ったほうで、台地は削られたほうということだ。12万年後に前者は赤線地帯となって、後者は「山手」と呼ばれるようになった。ここ2年のことについてはこれまで書いてきた通りだ。