日記の続き#322

ここのところオードリーの若林のことが気になっている。それはなんというか、この人はこれからどうなるのかということが気になるからで、それは、彼自身が言うミドルエイジクライシス的な悩みや、お笑いやテレビの世界での世代間のすれ違いが直接に気になる、あるいはそれを素直に言うことに共感するというより、そうしたことを各メディアで言うときの、当のメディアの構造やメディア間の差異を生きているおのれからネタを引き出す、最大限抽象化してしまえば要は「内輪ネタ」でしかないような話が、しかしある種のメタファーとしてしっかり機能して共感を呼んでいる、これはなぜか、こういうことをやっていく人はこれからどうなるのかということが気になるのだと思う。

書きたかったのは別のことで、そうして『あちこちオードリー』はいま唯一毎週チェックしているテレビ番組なのだが、オードリーと2, 3人のゲストが横並びで——主にテレビ業界の愚痴を——話すシンプルな形式の映像に、ときおり奇妙な編集が施されている。まずこの番組は、話している人の顔ではなく聞いている誰かの顔を抜くことが多いのだが、その延長線上に、話している人と聞いている誰かひとりの顔を画面分割で同時に映す場合もある。そのときの画面が奇妙で、というのも、おそらく撮影の段階でカメラマンが画面が縦半分のサイズになることを見越して撮ることはできないからか、出演者が体を左右に動かしたときに見切れそうになるのを、編集ソフト上でトリミングの範囲を1フレームずつズラして追っているのだが、そうするとその半分の画面だけが不自然にカクカクとして、急に通信速度が下がったような感じになる。みんな現場にいるのにZoom越しに喋っているかのように。そういえば、宮迫の不祥事のあとの『アメトーーク!』は、すでに撮影した回からむりやり編集で宮迫をフレームの外に追いやっていた。『水曜日のダウンタウン』はそれをネタにして何の告知もなく不自然に浜田がフレームアウトされた番組を放送したことでネットが騒然として、最後にネタばらしをしていた。それからコロナが来て、離れて座り、顔を映すときはひとりひとつの画面ということが当たり前になった。だからどうということはないのだけど、そういうことが気になる。