日記の続き#338

連載の書き方の参考に柄谷の『探求』に続いて東浩紀の「なんとなく、考える」(『ゆるく考える』所収)を読み返した。これは東浩紀のすごさがいちばんストレートに出ている文章かもしれない。文章のゆるさと考察の構築性がほとんどウソみたいに両立している。

内容とは別に、これは性格的なところもあるのかもしれないが、東がつねに読者に向かって語りかける構えで書いていることが気になった。サブカル批評好きは読まなくていいとか、半分は不信感による言及なのだが、そうは言っても連載をフォローする読者の存在を想定できていたわけで、それが「勘のいい読者はそろそろわかってきたと思うが」と言ってまったく別の話からもとの文脈に重ね合わせていく東的な話芸のドライブにもなっている。

連載は2008−2010年で、このときから年金とベーシックインカムとか、言論のパフォーマンス化とか、そういう話はあったのだなと思う(付け加わったのは大きいところで言えばリベラルと保守の対立の先鋭化くらいではないか)。ともあれ、批評が島宇宙化して、それでも「あえて」全体性を狙う身振りにもすでに飽き飽きしているなかにあってさえ、少なくとも紙の月刊誌の連載を毎回読む読者を想定することはできたのだ。これはたぶん性格的な問題を越えていて、仮に東がいま文芸誌で連載をしても同じようには書けないだろう。

もはや不信感を抱きようがないくらい「批評の読者」というものがどこにいてどういう人たちなのかわからなくなっている。ジャンルに紐付いた映画批評や美術批評が「島」たりえているのかということすら怪しい。

と、つらつら考えながら読んでいて、しかしこれは批評がその言及対象の価値や社会的位置づけによってゲタを履けなくなったということを意味しているにすぎず、これほどそれぞれの批評(家)単体の価値が試される時代はなかったのではないかとも思う。そういう意味で言えばたんにズルができなくなっただけだ。

しかし、批評が単体で機能するなんて語義矛盾ではないか。

気が向いたら後日続きを書きます。