日記の続き#352

布団のなかで、いつ死んでもいいように日記を書いているのかもしれないと思った。これは遺書として書いているというセンチメンタルな理由ではなく、きわめて実利的に言って、日記があるとないとではいま、あるいは早晩僕が死んだとしてそのときの僕の文章全体の時価総額も、その後の時間のなかでの価値もぜんぜん違ってくるだろうということだ。別の言い方をすれば、「どうせ死ぬ」ということに向けて書いているのではなく、「死を当てにしない」ためにこそ書いているということだ。べつに死後の評価なんて気にしたってしょうがないし、でもそのしょうがなさに向き合うことの難しさもたしかにあって、それはそのまま生きている私の価値へと私の思考を絡み取ってしまう。1000分の1で「死」が出るルーレットを毎日回しているとして、そのときに書くべきはまずもって遺書や自伝なんかじゃない。いまのうちに人目に触れておくことだ。