日記の続き#362

学振が今年度で終わるので、今年は生まれて初めて就職活動をすることになる。もとはと言えば働くのが嫌で、入るだけで月20万円もらえる副専攻が阪大にあったからという理由で修士に入って、なんだかんだでここ8年働かなくてもお金がもらえるという生活が続いてきた。2020年は学振DC1が切れてまだ博論も出していなかったが、渡りに船でダイヤモンドプリンセス号がやってきてコロナ関連の個人事業主支援と利子実質ゼロの特別貸し付けで乗り切った。博士に入った段階から大学に就職しなくても生活できるような状況を作っておいたほうがいいと思っていて、実際それはもうできているのだが、そうするといずれにせよ活動の端々に「あくせく」感が出る感じもするし、いちおうあらゆる選択肢をオープンにしている。ということで、いちど大学教員の公募に出してみようと思って横国から学位証明書を取り寄せた。提出書類のひとつに「研究内容とその社会的インパクト」について2000字で書くものがあって、書いているとなんで僕が多くて大人が3, 4人読む程度の文章を書かなきゃいけないのかという怒りが湧いてきて、その勢いで半分ほど書いた。もったいないのでここに貼っておく(内容も怒っている。僕は哲学をその外に出ないための方便として使うことに対する怒りでやってきたのだろう)。

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私は現代フランスの哲学を専門としており、とりわけジル・ドゥルーズの哲学を、彼の哲学実践と芸術との関係という観点から研究してきました。ドゥルーズは「リゾーム」や「器官なき身体」といった概念を提唱したことで知られる哲学者ですが、これらはいずれもカフカやアルトー、画家のフランシス・ベーコンといった作家たちについての批評のなかで生み出されました。つまり、彼が自身の哲学を彫琢するにあたって、芸術はきわめて重要な役割を果たしており、ここまで芸術の存在が哲学の構築に強く影響している哲学者を私は他に知りません。


芸術を扱う哲学は「美学」と呼ばれていますが、ここで私はドゥルーズの「批評」と美学一般を区別してみたいと思います。というのも、美学が「芸術とは何か」、「美とは何か」といったすでに与えられた問いに応答するために哲学的理論を駆使し、その事例としてあれこれの芸術作品を包摂するのに対して、ドゥルーズ的な批評は、それぞれに特異な作品が応答している固有の問題を探すためにこそ、芸術作品や芸術家に向き合うからです。美学においては哲学者はあらかじめ抱いている問いに適合する作品を探すことが求められ、批評においては作品との出会いによって初めて惹起される問いを捕まえることが求められます。


私のドゥルーズ研究に独自性があるとすれば、ドゥルーズが芸術一般について、あるいは特定の作家なり作品なりについて「何を」言っているかという観点ではなく、彼の芸術論が「どのように」作られ、それが狭い意味での彼の哲学とどのような関係を形作っているかという観点から研究している点だと思います。


ドゥルーズにとって芸術が哲学を適用したり応用したりする対象ではなく、むしろ哲学をそのつど作り替えることを強いるような、それ自体 “critical” な存在であるとすれば、問われるべきはそのような他律的な哲学とは何なのか、哲学史のなかでそれがどのような意味で際立ったものであるのかということです。哲学者があれこれの作品から「影響を受ける」というのはよく聞く言い回しですが、その実相を哲学のなかで明確にするということは案外なされて来ませんでした。

こうした問題意識のなかで、私は早い段階から、狭義の哲学研究に収まらない、「批評」というフィールドで活動してきました……