横国の授業とPARAの講読の日。授業は前日にぐずぐず準備をするより、早起きして当日に2時間ぐらいでばっと仕上げたほうがいいということがわかってきた。早起きして、フーコーに戻って「自己の書法」の話をするかドゥルーズの管理社会論にするかと考えていたが、いちどフランス現代思想から離れてヒンティッカの「コギト・エルゴ・スムは推論か行為遂行か」の話をすることにした。それは感覚的な判断で、なんとなくここらでいちど、私、言葉、存在、思考といったものについて、社会や倫理から離れたところから話しておいたほうがいいような気がしたからだ。授業では毎回感想を提出してもらっていて、話したことについて毎週120人くらいから言葉が返ってくるという環境は希有なもので、それを読んでいるとフーコーやドゥルーズの話はいきおい人生訓的なものや優等生的道徳として処理されるきらいがあるなと感じる。それで、デカルトのコギトとオースティンのパフォーマティビティの概要を辿ったあとにヒンティッカの「実在的不整合」の話をまとめた資料を作る。最後にしかし僕が本当に面白いと思うのは、コギトのパフォーマティビティの裏面にある、考えていないあいだおのれの存在が宙に浮いているということで、日記というスカスカな文章表現にはその非意識における存在の剥離が刻まれる。しかしそれがあいかわらず〈私〉であるとして、それは何なのかと問うて終わった。