自由は自由でええけど、なんで文章なん?

ちょっと元気がなかった。というか、たんに疲れているんだと思う。『非美学』が出てからの2ヶ月、エゴサリツイート宣伝エゴサリツイート宣伝の日々で、無職だから誰とも会わないし、ぐーっと狭いところに入っていって、その反動が出ているのだろう。一人暮らしに戻ったように朝8時に寝て夕方起きて、夜中に街を歩き回って音楽を聴いて、妻にもいぶかしがられている。そういうのは僕にとっての帰省みたいなもので……という話を家族にするのはくすぐったいが、幸いにして24時間ジムに登録しているので真夜中に出かけても不自然ではない(たぶん)。


さっき、ベッドに入ってから2時間ほどで汗だくで目が覚めて、それで、自分が回復していることに気がついて、これを逃してはダメだと思って二度寝はせずに外に出て、珈琲館でこの文章を書いている。ここ2週間ほど、エディタというものをまったく開く気になれず、ちょうど昨日「言葉と物」の編集者に今月末の締め切りにはとうてい書けないと言って1号休載させてもらうことにしたのだが、こんなにすぐ元気になるなら書けたのにとも思うし、当のその締め切りが不調の原因だったのだという気もする。そういうのは結局よくわからないし、いちばん楽な合理化で済ましておけばいいようにも思う。どうせわかんないんだから。


目が覚める前に、夢を見ていた。スーパーのお菓子コーナーで「さやえんどう」を探しているのだが、ぜんぜん見つからないという夢で、もう「サッポロポテト」でいいやと思ってそちらを探すとようやく「さやえんどう」があって、しかしそれはパッケージも緑一色の「無印」化したもので、おまけの何かが剥ぎ取られた痕跡もあり、完全にがっくしきたところで目が覚めた。普段僕は夢をまったく見ないが、夢を見るときはいつも目覚めがいい。悪夢ならなおさら。たぶん寝汗をかくような代謝のありようと元気が連動しているんだと思う。


この間いろんなことを考えた。自分のことばかりだが。大半は流れ去っていったが、紙のノートにいまの気持ちを書いたりもした。紙のノートはよくない。いきおい元気がなくなるとパソコンを開かなくなり、それが何か着実な一歩でもあるかのようにノートにいろいろ書いたりするが、それだって逃避で、スマホもしっかり手もとにあるわけで、そんな状況で「自分のためだけに」と自己憐憫込め込めで書いたって体にいいわけがない。言葉なんだから他人の目がないと。やっぱりこうしてパソコンでエディタで、手書きの揺らぎや手応えなんかない、見るからに公共的な游ゴシックでぱちぱちと手放していくのが文章というものだ。どこを向いてもセルフケアの時代だが、それだって体のいい自己憐憫の口実が商売になっているだけだとも言える。甘えるな!というのはもはや《絶対に言ってはいけないこと》のカテゴリーに入っているが、それだってそのほうが儲かるから、とだって言えてしまうのだ(言えると言っているだけですよ、僕は)。


いやー、しかしやっぱりMacBookのペラペラのキーボードで振り返りもせずに書いていくと体にいい感じがしますね。とはいえこの数週間で悩んでいたのはまさにそのことでもあって、僕は『非美学』を出してディシプリンとしての哲学には(いったん)ケジメをつけて、ここ数年は美術批評みたいなジャンル前提の批評すら書いていなくて、「言葉と物」初回の冒頭に謳ったようにある種の純粋散文の実践みたいなものに舵を切っていて、日記もその延長にあったわけだけど、そういう、決まった読者がプールされたところに球を投げるのではないやり方を、ずーっとやっていくのはそれはそれでめちゃめちゃタフなんじゃないかということに、ひとことで言うとまあ、ビビっていたんだと思う。僕のあらゆる文章は、世の中に「言うべきこと」があるかのように振る舞い、そのゲートキーパーを自認しているような人間への憎悪によってドライブされている。かといって些細なことを愛でることこそが重要なのだという方向にもいかないし、そのつどめちゃめちゃタイトロープなのだ。しかしいったい誰がそれを喜ぶのか?


まあ現実問題として、哲学にせよ美術にせよ、べつにもはや打てば響くような業界でもなく、そのなかで仕事を回し合ってもしょうがないというのもあり、僕が自分の仕事としてこういう感じでやっていくのはたんに乗りかけた船ということでなく間違いではないと思う。だとしても、だとしても、だとしても、「ただの文章」で生きていくって、完全に虚業だし、音楽みたいに誰かと一緒に演奏したり目の前の人間を楽しませたりするわけでもないし、書いているときはひとりで、読んでいるときも読者はひとりで、それでずーっとやっていくってヤバくないか?小説ですらないし、と考え込んでしまっていたのだ。「言葉と物」の最初に書いた、批評は「もっとも自由な散文」なのだという言葉がベタにブーメランになって返ってきたわけだ。自由は自由でええけど、なんで文章なん?(岡山弁)と。


というようなことを考えたのは、こないだ菊地成孔さんと対談したこともきっかけになったと思う。生粋の非インターネットネイティブの、何十年も舞台に立ってきた人の空間を掌握する力はすさまじく、虚業者としてのレベルがぜんぜん違う。それは喋りの面白さとかそういう話ですらなく、音楽(あるいはセックス)というワイルドカードを持っているかどうかという構造的な話で、最後に菊地さんは僕は人類みんなが音楽家になるといいと思っているという夢を語ってらっしゃって、素晴らしいなと思ったのだが、僕は人類みんなが哲学者になればいいなんてまったく思ってないし(そんなことを言う人間は詐欺師だ)、むしろ『非美学』は「哲学しない」ことの領分を護るための本でもあった。彼のパワーに完全に当てられて、マジで自分は何らかの楽器をやるべきなんじゃないか、いま菊地さんはサックス初心者のクラスとかやってないかしらと調べたりまでして、しかしそれだって僕がもともと感じていた無力感に彼の言葉がぱかっとはまっただけかもしれず、どっちが先なのかはやっぱり問うても詮ない。


文章って、虚業にしてもあまりに半端じゃないか……そもそも存在が偉そうだし……という悩みは、構造的にはこの先も消えることはないだろう(ちょっと音楽をやろうがそれは変わらない。やっぱり自分の夢を賭けるかどうかは大きな違いだ)。悩みは消えないだろうが、いまはもう悩んでいない。なんかそういう気分じゃなくなったから。音楽のおかげで?

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カテゴリー: 日記