今年もあと2ヶ月、早いものだなあ、とはまったく思わず、とっとと終わってくれと思う。でもまあ、やっと区切りがついたのに終わったら休めないからこれでいいのか。
今日、「言葉と物」の第11回にして最終回のゲラを編集者に返した。この回はもともと8月末締め切りだったのをいまは書けそうにないとひと月延ばしてもらい、さらに9月末締め切りを2週間ほど延ばしてもらってやっと初稿が書けた。しかももともともう1回書く予定だったのを急遽最終回に変えてもらって。
どうにも書けなかったのは、まだ終わっちゃダメだと思っていたからで、二度目の締め切りのあとやっと、これまでの10回ぶんをじっくり読み返して、これはもう終わっているのだということに気がついて、気がついたとたんに自分を慰めてあげたい気持ちになり、これまで書いたことをひとつずつ集めなおして、それが全体としてどういう問題に応答するものなのかということを、新しい観点から書いた。必要だったのは新たな解答ではなく、これまで書いたものが解答であるような問題だったのだ。「言葉と物」というタイトルからして、それ自体はテーマというより方法論的な指針を指しているが、やっとこの連載がどういう問題にドライブされているかということに名前を与えることができてほっとしている。
少しさかのぼって9月、もうすぐ刊行される『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』の序文を書いた。これももう、僕としては完全に「総括」で、2017年あたりからこれまで書いてきたこと、『非美学』も連載も単発原稿も日記も含めてすべて、8000字ほどのこの序文が圧縮・代表しているということでいい、これを読んでくれたら僕のことはもうわかったということにしてもらっていいと思えるようなものになった。総括なんかせずに「伸びしろ」感を出して引っ張ったほうが得という世界だけど、個人的にそういうタイミングだからというのもあるが完全に総括の季節で、そういう時期にこうしてモニュメンタルなものを書けてよかった。
今年の初めに最終章だけで半年くらいかかった『非美学』を書き上げて、6月に刊行されて——同月に日記が終了し——8月に新たな鼎談を付した『眼がスクリーンになるとき』文庫版が出て、来月『ひとごと』と「言葉と物」最終回が刊行される。あと日記と連載の書籍版が来年出せれば、それでひとつのチャプターが区切られるだろう。そのあとのことはそのあと考えようと思う。
もしかしたら、これまでのところの書き手としての自分のいちばんの功績は、「2019-2024年という時代をちゃんと書いたこと」になるのではないかと思う。コロナ禍以降と呼ぶのがいちばん手っ取り早いのだが、やっぱり2019年の京都アニメーション放火事件や「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を巡る騒動からひとつながりだと捉えている。生成AIの急激な発展と普及、ウクライナとパレスチナへの侵攻、リベラルな普遍主義の終わり……この時代のことを『非美学』、『ひとごと』、「言葉と物」、そして日記という4通りのしかたで圧縮できたことは、ラッキーと言うほかないが、これからどんどん折に触れて立ち返られるものになると思う(思う)。
なかでも、とりわけ僕にとっては、日記は日増しに不気味な存在になっている。2021年1月から2024年6月という、個人的にも『非美学』リライトの苦闘のなかで前後不覚になっていた3年間が保存されているというのは恐ろしいことだ。あれが本になるとはどういうことなのか。
ともかく、直近のものとしては来月初旬の『群像』に載る「言葉と物」最終回、中旬に出る『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』をよろしくお願いします。いまちょうどフィロショピー第2期の講座も販売開始しているので、こちらもぜひ。来月・再来月にかけて書店トークイベントや書店フェアの開催もいろいろ予定しております。詳しい告知はツイッターで追っていただきたく。